租税法規の遡及適用違憲判決

 

 

 

所得税の更正処分取消請求事件

 

 

【事件番号】 福岡地方裁判所判決/平成18年(行ウ)第24号

 

【判決日付】 平成20年1月29日

 

【判示事項】 建物譲渡による損失について損益通算を廃止した租税法規の遡及適用を違憲とした事例

 

【判決要旨】 (1) 租税法規不遡及の原則について、憲法上明文の規定はないものの、憲法84条が規定している租税法律主義は、国民に不利益を及ぼす租税法規の遡及適用を禁じていると解すべきである。なぜならば、租税法律主義は、国民の経済生活に法的安定性、予見可能性を保障することをその重要な機能とするものであるところ、国民に不利益を及ぼす遡及立法が許されるとするとこの機能が害されるからである。もっとも、租税法規については、刑罰法規とは異なり、憲法上遡及適用を禁じる旨の明文の規定がないほか(憲法39条前段参照)、適時適切な景気調整等の役割も期待されていることなどにかんがみると、租税法規不遡及の原則は絶対的なものではなく、租税の性質、遡及適用の必要性や合理性、国民に与える不利益の程度やこれに対する救済措置の内容、当該法改正についての国民への周知状況等を総合勘案し、遡及立法をしても国民の経済生活の法的安定性又は予見可能性を害しない場合には、例外的に、租税法規不遡及の原則に違反せず、個々の国民に不利益を及ぼす遡及適用を行うことも、憲法上許容されると解するのが相当である。

 

      

(2)~(4) 省略

 

【参照条文】 憲法84

       所得税法69-1

       租税特別措置法31-1

 

【掲載誌】  判例タイムズ1262号172頁

 

 

 

について検討します。

 

 

 

 

主   文

 

 1 福岡税務署長が原告に対し平成17年6月20日付けでした,原告の平成16年分所得税の更正の請求に対する更正をすべき理由がない旨の通知処分を取り消す。

 2 訴訟費用は被告の負担とする。

 

       

 

 

事実及び理由

 

 

第1 請求

 主文と同旨

第2 事案の概要

 本件は,原告が,平成16年3月10日に住宅を譲渡したことにより長期譲渡所得の計算上損失が生じたとして,福岡税務署長に対し,平成16年分所得税に係る更正の請求をしたところ,福岡税務署長から,同年4月1日施行の法律の改正により,同年1月1日以後に行われた原告の住宅の譲渡についてはその損失金額を他の所得から控除(損益通算)できなくなったとして,更正すべき理由がない旨の通知処分(以下「本件通知処分」という。)を受けたことから,原告に不利益を及ぼす租税法規の遡及適用は許されないとして,被告に対し,本件通知処分の取消しを求めた事案である。

 1 関係法令の定め

 (1)所得税法69条1項(損益通算)

 総所得金額,退職所得金額又は山林所得金額を計算する場合において,不動産所得の金額,事業所得の金額,山林所得の金額又は譲渡所得の金額の計算上生じた損失の金額があるときは,政令で定める順序により,これを他の各種所得の金額から控除する。

 (2)平成16年の住宅・土地税制の改正

 平成16年法律第14号「所得税法等の一部を改正する法律」(以下「本件改正法」という。)は,次のような改正(以下「本件改正」という。)を含むものであった(以下,本件改正前の租税特別措置法を「旧措置法」と,本件改正後の租税特別措置法を「新措置法」という。)。

 ア 土地,建物等の長期譲渡所得の課税の特例について,次のように所得税の税率を引き下げた(税率軽減)。

 改正前 特別控除後の譲渡益の20パーセント(旧措置法31条1項,2項)

 改正後 譲渡益の15パーセント(新措置法31条1項,2項)

 イ 土地,建物等の長期譲渡所得の金額の計算上生じた損失の金額については,土地,建物等の譲渡による所得以外の所得との通算及び翌年以降の繰越しを認めないことにした(損益通算等の廃止。新措置法31条1項,3項)

 ウ 長期譲渡所得の100万円特別控除(旧措置法31条4項)を廃止した。

 エ 居住用財産の買換等の場合の譲渡損失の繰越控除制度について,譲渡資産に住宅借入金残高がない場合を適用対象に加えるなどの改正をしたほか,買換えをした年の12月31日に買換資産に係る住宅借入金があるなど一定の要件がある場合には,譲渡資産に係る譲渡損失の金額について,他の所得との通算を認めることにした(損益通算等を認める特例措置。新措置法41条の5)。

 オ 特定居住用財産の譲渡損失の金額がある場合に,譲渡資産の譲渡の前日に譲渡資産に係る住宅借入金があるなど一定の要件があれば,当該損失の金額について,他の所得との通算を認めることとした(損益通算等を認める特例措置。新措置法41条の5の2)。

 カ 新措置法は,平成16年4月1日から施行するが,新措置法31条の規定等は,個人が平成16年1月1日以後に行う同条1項に規定する土地,建物等の譲渡について適用することとした(適用時期。新措置法附則1条柱書,27条1項,32条)。

 2 前提事実(争いのない事実並びに証拠及び弁論の全趣旨により容易に認められる事実)

 (1)居住用財産の購入及び売却等

 原告は,平成9年4月27日,M株式会社から,福岡市中央区〈番地等略〉所在のマンション・専有部分73.88平方メートル1戸(以下「本件譲渡資産」という。)を,代金4837万2087円で購入した(乙1)。

 原告は,平成16年3月10日,第三者に対し,本件譲渡資産を,代金2600万円で売却した(乙2)。

 なお,原告は,同月9日において,本件譲渡資産に係る住宅借入金を有していなかった。

 (2)買換資産の購入等

 原告は,平成16年3月24日,株式会社Jから,福岡市中央区〈番地等略〉所在のマンション・専有部分97.44平方メートル1戸(以下「本件買換資産」という。)を購入した(乙4)。

 なお,原告は,同年12月31日において,本件買換資産に係る住宅借入金を有していなかった。また,平成17年12月31日までに,新たに居住の用に供する家屋等を購入する予定はなかった。

 (3)確定申告

 原告は,平成17年3月8日,福岡税務署長に対し,平成16年分所得税について,別表1「確定申告(A)」欄のとおり申告した。

 (4)更正の請求等

 原告は,平成17年3月25日付けで,福岡税務署長に対し,別表1「更正の請求(B)」欄のとおり,平成16年分所得税の更正請求をした。この更正請求において,原告は,本件譲渡資産の売却により譲渡所得の金額の計算上2032万8824円の損失が生じたとして,これを他の各種所得の金額から控除していた。

 しかし,福岡税務署長は,本件改正により,損益通算をすることはできなくなったとして,平成17年6月20日付けで,更正すべき理由がない旨の本件通知処分をした(甲1)。

 (5)審査請求等

 原告は,平成17年6月27日,福岡税務署長に対し,本件通知処分に対する異議申立てをしたが,福岡税務署長は,同年9月14日付けで,これを棄却する旨の決定を行った(甲2)。

 原告は,同年9月29日,国税不服審判所長に対し,本件通知処分を不服として審査請求をしたが,同所長は,平成17年12月12日付けで,これを棄却する旨の裁決を行った(甲3)。

 (6)法令の改正経緯等

 本件改正法は,平成16年2月3日に国会に法案が提出され,同年3月26日に成立し,同月31日に公布され,同年4月1日に施行された。

 3 争点

 損益通算を廃止した本件改正法をその施行時期より前の平成16年3月10日に行われた原告の住宅譲渡について適用することは,憲法(租税法規不遡及の原則)に違反するか

 (原告の主張)

 本件改正法は平成16年3月26日に成立し,同月31日に公布され,同年4月1日に施行されたものであるところ,本件改正は,新措置法附則27条等により遡及適用され,同年1月1日から同年3月31日までに行った建物等の譲渡についても,長期譲渡所得の金額の計算上生じた損失を,他の各種所得金額から控除(損益通算)できないことになった。

 原告は,同年3月10日,その当時の租税法規により損益通算が可能であると信じて,本件譲渡資産の売却を行ったのに,本件改正により,これが認められなくなり,約170万円の還付が受けられないという著しい不利益を被った。

 国民は,その時点で存在する法律を遵守し,その法律の下で社会生活を送ることが原則であり,そのような国民の財産権を侵害する遡及適用は許されるべきではない。

 法律とは,国民の社会生活の秩序を維持するため,国民に知らしめ,遵守させるべきもので,だからこそ必要に応じて立法,改正作業が行われるのである。そうであるならば,法律に変更がある場合は,大多数の国民が理解するよう周知された上で,施行されなければならない。しかし,本件ではこのような周知がなされることはなかった。

 本件改正の内容は複雑であり,法案成立については不確定な要素が多く,原告等一般の納税者にとっては理解,予測をし難いものであった。また,本件改正の内容は,平成15年12月15日の政府税制調査会の総会までは全く触れられず,同月17日の「与党税制改正大綱の骨子」に唐突に登場しており,本件改正が予見可能性のないものであったことは明らかで,しかも,その内容について十分な審議も行われていない。さらに,本件改正法が成立したのは平成16年3月26日であり,その後十分な周知期間を置くこともなく公布・施行されており,その適用は,長期間の資産計画の下に資産譲渡を行った原告の権利を奪うものである。

 被告は,本件改正法成立日以前に,マスコミ等によって本件改正が報道されていたことをもって,本件改正について事前の十分な周知及び予見可能性があった旨主張している。しかしながら,法案はあくまで法案であって,将来そのとおりの法律が成立するかどうかは不確定であり,マスコミ等の報道をもって本件改正が周知されていたとはいえない。

 (被告の主張)

 以下に述べるように,原告に対し,本件改正が適用されたのは,租税法規の遡及適用には当たらないし,仮に遡及適用と捉える余地があるとしても,本件改正には十分な必要性・合理性があり,これを平成16年1月1日以後の譲渡から適用する必要性も存し,かつ,事前に国民に対し十分な周知が行われていたのであるから,本件改正は合憲であり,これを根拠になされた本件通知処分は適法である。

 (1)租税法規の遡及適用に当たらない

 ア 憲法30条及び84条は,いわゆる租税法律主義を採用しているところ,租税法律主義には,過去の事実や取引を課税要件とする新たな租税を創設し,あるいは過去の事実や取引から生ずる納税義務の内容を納税者の不利益に変更することを許さないとする不利益不遡及の原則が包含されている。そして,この原則で問題とされる租税法規の遡及適用とは,既に成立した納税義務の内容を納税者の不利益に変更するものをいうと解される。

 ところで,所得税は1暦年(1月1日から12月31日まで)の所得ごとに課税され,暦年の終了時に納税義務が成立する期間税であるところ,譲渡所得の金額の計算は,1暦年を単位としてその期間ごとになされるものであって,個々の譲渡行為が行われるごとにされるものではない。また,損益通算は,納税義務が暦年終了時に成立し,納付すべき額が確定申告により確定される段階において,課税標準であるその歴年間における総所得金額等を計算する過程で適用されるものである。そうすると,1暦年の途中においては未だ当該年分の納税義務は成立していないのであるから,暦年途中の法改正において,その暦年開始時からの譲渡につき損益通算を認めないことにしたとしても,既に成立した所得税の納税義務の内容を変更することにはならない。

 本件に即して言えば,本件改正は既に成立した原告の平成16年分所得税の納税義務の内容を変更するものではないから,これを適用することは遡及適用には当たらない。

 イ 過去における損益通算をめぐる法改正状況からしても,本件改正が違法な遡及適用に当たらないことが明らかである。

 すなわち,昭和22年及び昭和25年の税制改正では,新たに損益通算が認められることになったが,いずれも,4月1日施行の法令により,当該暦年初日である1月1日から適用されている。他方,昭和27年,昭和36年,昭和37年,昭和40年,昭和43年の税制改正では,従前認められていた損益通算が廃止されたり,順序が整備されたりすることとなったが,いずれも,4月1日又は20日施行の法令により,1月1日から適用されている。

 このほか,課税対象への追加や各種控除の縮減・廃止についても,同様の立法例がある(別表2参照)。

 このような状況は,これらの法改正等が遡及立法に当たらないことを示している。

 (2)本件改正には必要性・合理性があり,平成16年1月1日の譲渡から適用する必要性も存し,予見可能性もあった

 ア 仮に本件において遡及適用がなされていると捉える余地があるとしても,刑罰法規については,憲法39条によって事後法の制定が禁止されているのに対し,民事法規における法律不遡及の原則は,解釈上の原則であって,憲法は遡及適用を認める立法を禁じるものではないから,遡及適用を認める合理的理由が存在すれば,当該法律は違憲・無効ではないと解される。

 イ 本件改正に必要性・合理性があったこと

(ア)不均衡の是正

 a 土地建物等の譲渡損益は,事業や給与などの経常所得とは性質が異なり,他の所得と通算することには本来的に問題があり,主要諸外国においてもこれを無制限には認めていないものであるのに,本件改正前の土地建物等の損益通算の制度は,利益が生じれば20パーセント(所得税)の分離課税とされる一方,損失が生じた場合には他の所得との損益通算が認められるという不均衡なものであった。本件改正は,このような不均衡を解消するものであった。

 b 株式等に係る譲渡所得等に対する課税については,完全な分離課税方式が取られ,利益が生じた場合には15パーセント(所得税)の課税をし,損失が生じた場合には他の所得との損益通算は認められていないところ,本件改正が行われる当時,株式,不動産等の資産性財産については一体的に分離課税方式を取るという考え方の流れがあり,本件改正は,そのような流れの中で,株式等に対する課税とのバランスをも考えて行われたものである。

(イ)一体的租税措置及び早期実施の必要性

 a 一体的租税措置の必要性

 損益通算の廃止を,上記税率引下措置と一体的に実施しなければ,税率引下げにより,上記不均衡は拡大することになっていた。

 このように,本件改正においては,上記税率引下措置と一体的に実施することが必要かつ合理的だったのである。

 b 早期改正の必要性

 上記税率引下措置は,税率軽減により土地取引を活性化することが目的であったところ,損益通算を廃止すれば,税制面の損益通算を考慮することなく真の土地の価値に応じた取引価格形成が期待でき,両者あいまって,土地価格の下落に歯止めがかかり,資産デフレの現状が克服されることが期待されており,このような効果は早急に実現されることが求められていた。

 また,損益通算の廃止又はこれと上記税率引下措置の双方の適用時期を遅らせると,その間に節税のための損益通算を目的とした安売りによる土地の売却を招くおそれがあり,使用収益に根ざした取引価格形成を阻害し,土地市場に不測の悪影響を及ぼすことが予測された。

 c 平成16年1月1日以後の譲渡から適用する必要性

(a)平成3年以降の地価下落により,地価の高騰抑制目的で導入された譲渡所得の分離高率課税制度がその根拠を失っていたことなどを受け,国土交通省等では,地価上昇を前提としない土地税制のあり方や,不動産投資意欲の喚起という観点からの税制の検討の必要性が議論され,個人の譲渡所得課税については,株式をはじめとする他の資産と均衡を失しない市場中立的な税体系とすべきとの結論に至った。そして,国土交通省は,平成15年8月31日,個人の土地長期譲渡所得にかかる税率の引下げ等を含む平成16年度税制改正要望事項を発表した。

 このように,長期譲渡所得の税率引下げは早急に実施される必要があったところ,税率引下げと損益通算廃止は1つのパッケージとして措置することが必要であり,このパッケージ全体の適用を1年遅らせたとすれば,土地価格の下落,資産デフレ,日本経済の低迷を招くという弊害を招くこととなっていた。

 また,パッケージ全体の適用を1年間遅らせれば,上記のように,その間に節税のための損益通算を目的とした安売りによる土地の売却を招き,土地市場に不測の悪影響を及ぼすことが予測されたのであって,このような弊害を回避するためには,本件改正を平成16年1月1日から適用する必要があった。

(b)本件改正をその施行日である平成16年4月1日の譲渡から適用するものとしても,上記(a)と同様に土地価格下落等の弊害は予測される上,徴税技術上の必要性を満たし得ず,納税者の混乱をも招きかねないのであり,この点からも,本件改正は同年1月1日から適用する必要があったといえる。

(ウ)徴税技術上の必要性

 徴税技術上の観点からすれば,課税処理は一義的,統一的な基準によって行う必要があるところ,損益通算の廃止を本件改正法の施行日である平成16年4月1日以後の譲渡についてのみ認めるとすれば,同日の前後で処理を異にしなければならず,上記必要性を満たし得ないばかりか,納税者の間にも多大な混乱を招き,確定申告手続における負担を生じさせることになる。

(エ)期間税の性質からの必然性

 所得税は期間税であり,譲渡所得の金額の計算は1暦年を単位としてその期間ごとにされるものであるから,暦年の途中で損益通算に関する規定の改正が行われた場合に,その適用を当該暦年の初日からとすることは当然であって,本件改正は適正なものである。

(オ)損益通算の廃止に対する合理的なケア

 本件改正においては,損益通算の廃止と同時に,譲渡資産又は買換資産に係る住宅ローンを有する一定の場合の譲渡損失については,損益通算を認める内容の特例(新措置法41条の5及び41条の5の2)を創設・拡充する特例措置が取られ,国民のライフステージに応じた住み替え等をきめ細かく支援する対応を行い,本件改正による損益通算の廃止に対する合理的なケアが図られている。

 これを考慮すれば,本件改正は,全体として合理性,相当性を有するものといえる。

 ウ 本件改正の内容について予見可能性があったこと

 本件改正の内容については,平成15年12月17日に与党において「平成16年度税制改正大綱」が取りまとめられ,その後国会において審理されており,これは,国民に対し,本件改正の内容をアナウンスする効果があるものである。

 また,上記「平成16年度税制改正大綱」取りまとめ以降,本件改正の内容は,マスコミ各社等によって以下のように多数報道されている。

 平成15年12月18日 読売新聞,朝日新聞,毎日新聞,日本経済新聞の各朝刊

      12月22日 税のしるべ,税務通信

      12月26日 日本経済新聞朝刊

      12月30日 住宅新報

 平成16年 1月 8日 国税速報

       1月15日 国税速報

       1月31日 週刊ダイヤモンド

       2月 2日 納税通信

       2月 9日 バードボレード

       2月24日 住宅新報

 このように,本件改正の内容は,改正法が公布・施行される以前から,国民に周知され,国民にとって予見可能性を有するものであったといえる。

 (3)なお,原告は,本件改正は十分な審議がなされないまま唐突に行われた旨主張している。しかし,土地税制については,平成元年以降,政府税制調査会においても多く議論され,本件改正は,従来のそれらの議論から逸脱するものではなかったし,本件改正は過去の着実な議論の流れの中に位置づけられるものであって,原告の主張は失当である。

 (4)以上のように,本件改正は合憲であり,これを根拠になされた本件通知処分は適法である。

 

 

 

第3 当裁判所の判断

 1 租税法規不遡及の原則について

 

 (1)租税法規不遡及の原則について,憲法上明文の規定はないものの,憲法84条が規定している租税法律主義は,国民に不利益を及ぼす租税法規の遡及適用を禁じていると解すべきである。なぜならば,租税法律主義は,国民の経済生活に法的安定性,予見可能性を保障することをその重要な機能とするものであるところ,国民に不利益を及ぼす遡及立法が許されるとするとこの機能が害されるからである。

 

 (2)もっとも,租税法規については,刑罰法規とは異なり,憲法上遡及適用を禁じる旨の明文の規定がないほか(憲法39条前段参照),適時適切な景気調整等の役割も期待されていることなどにかんがみると,租税法規不遡及の原則は絶対的なものではなく,租税の性質,遡及適用の必要性や合理性,国民に与える不利益の程度やこれに対する救済措置の内容,当該法改正についての国民への周知状況等を総合勘案し,遡及立法をしても国民の経済生活の法的安定性又は予見可能性を害しない場合には,例外的に,租税法規不遡及の原則に違反せず,個々の国民に不利益を及ぼす遡及適用を行うことも,憲法上許容されると解するのが相当である。

 

 

 2 本件改正は租税法規の遡及適用に当たるか否かについて

 

 租税法規の遡及適用の禁止は,国民の経済生活に法的安定性,予見可能性を保障する機能を有することにかんがみると,遡及適用とは,新たに制定された法規を施行前の時点に遡って過去の行為に適用することをいうと解すべきである。本件改正は,平成16年3月26日に成立し,同月31日に公布され,同年4月1日から施行されたものであるところ,その施行前である同年1月1日から同年3月31日までの建物等の譲渡について適用するものであるから,遡及適用に該当するというべきである。

 

 これに対し,被告は,租税不遡及の原則で問題とされる租税法規の遡及適用とは,既に成立した納税義務の内容を国民の不利益に変更するものをいうとした上で,所得税は1暦年(1月1日から12月31日まで)の所得ごとに課税され,暦年の終了時に納税義務が成立する期間税であるところ,1暦年の途中においては納税義務は成立していないのであるから,暦年途中の法改正によってその暦年における所得税の内容を変更する本件改正は,既に成立した納税義務の内容を変更するものではなく,遡及適用に当たらないと主張している。

 

 確かに,期間税の場合,納税者の納税義務の内容が確定するのは1暦年の終了時であるが,遡及適用に当たるかどうかは,新たに制定された法規が既に成立した納税義務の内容を変更するものかどうかではなく,新たに制定された法律が施行前の行為に適用されるものであるかどうかで決せられるべきである。なぜならば,期間税の場合であっても,納税者は,その当時存在する租税法規に従って課税が行われることを信頼して,各種の取引行為等を行うのであって,そのような納税者の信頼を保護し,国民生活の法的安定性や予見可能性の維持を図る要請は,期間税であるかどうかで変わりがないからである。

 

 なお,過去に従前認められていた損益通算を廃止したり,順序を整備した新たな法律等を,施行日が暦年の途中でありながら,その年の1月1日の譲渡から適用する法改正がなされた前例があるが(別表2),前記のとおり,租税法規不遡及の原則は例外を許さないものではなく,租税の性質,遡及適用の必要性や合理性,国民に与える不利益の程度やこれに対する救済措置の内容,当該法改正についての国民への周知状況等を総合勘案し,遡及立法をしても国民の経済生活の法的安定性又は予見可能性を害しない場合には例外が許される場合があるのであるから,これらの前例があることは,期間税に関する被告の上記主張を必ずしも裏付けるものとはいえない。

 

 

 3 本件改正の遡及適用は,例外的に許される場合に当たるか否かについて

 

 (1)遡及適用の必要性・合理性

 

 ア 証拠(甲8ないし12,14,乙6,11の1ないし4,乙12ないし30,乙39,乙40の1,2,乙41ないし43)によれば,次の事実が認められる。

 

 平成12年7月,政府税制調査会において,「わが国税制の現状と課題―21世紀に向けた国民の参加と選択―」という報告書を作成したが,その中で,損益通算に関し,租税回避行為への対応として,操作性の高い投資活動から生じた損失と事業活動などから生じた所得との損益通算の制限について検討が必要であるとの指摘があった(乙26)。

 

 平成14年2月18日,国土交通省の国土審議会土地政策分科会企画部会において,地価の上昇を前提としない土地税制や不動産に対する投資意欲の喚起のための不動産税制を考える必要があることなどが議論された(乙40の2)。また,同年6月19日,国土交通省の「今後の土地税制のあり方に関する研究会」の中間取りまとめにおいて,地価下落等の土地をめぐる環境の変化を踏まえた税制の構築,株式等他の資産と均衡を失しない市場中立的な税体系の検討等が必要であるとの指摘があった(乙41)。

 

 平成15年8月31日,国土交通省は,平成16年度の税制改正について,株式等他の資産と均衡を失しない市場中立的な税体系を構築することにより土地への投資意欲を喚起するため,他の資産と比べて重く課税している土地譲渡益に対する税率の引下げを要望した(乙42)。

 

 平成15年12月17日,与党において「平成16年税制改正大綱」が取りまとめられ,本件改正の内容が初めて盛り込まれた(乙6,11の1ないし4)。

 

 平成16年1月16日の政府税制調査会において,資産性所得に関する税制の一体化という従来からの議論の流れを受けて,損益通算を廃止するべきとの結論に至ったとの審議官の説明があった(乙19)。同年2月27日の衆議院財務金融委員会において,損益通算を認めない対象を法施行日前である平成16年1月1日の譲渡からに遡る理由として,これを平成17年1月1日からなどとすると損益通算目的で駆け込み的な売却が行われるおそれがあり,また,税率引下げと一体的に行うことで不動産取引の活性化を図るべきであるという財務大臣の説明があった(乙24)。同年3月1日の衆議院予算委員会第七分科会会議において,本件改正を税率引下げと一体として行うことで,土地の使用価値に応じた適正な不動産価格形成の実現が期待される旨政府参考人の説明があった(乙21)。同月12日の参議院本会議においても,本件改正を税率引下げと一体的に行い,かつ,適用時期を遅らせないとすることで,損益通算目的の売却の防止や使用収益に応じた適切な不動産価格形成を図るべきであるとの財務大臣の説明があり(乙18),同月15日の参議院予算委員会においても,損益操作や節税目的の不動産売却を防止する本件改正が土地市場活性化のために必要である旨財務大臣の説明があった(乙16)。

 

 

 イ 以上のように,遅くとも平成12年ころから,地価が下落傾向にあること,損益通算には節税目的で利用される問題点があること,不動産と株式等他の資産性所得との均衡を図るべきことなどから,不動産税制や不動産譲渡の損益通算の是非について議論があり,そのような流れを受けて,平成15年12月17日の与党税制改正大綱において,損益通算の廃止を税率引下げと一体的に,かつ,対象となる譲渡の時期を法施行日前の平成16年1月1日として行うことで,損益通算目的の駆け込み的不動産売却を防止しながら使用収益に応じた適切な不動産価格の形成を実現し,資産デフレの克服,土地市場の活性化を図るべきという結論に達し,以後,与党税制調査会,政府税制調査会,衆参両議院等において,本件改正の内容や理由等について議論,説明等が繰り返されたことが認められる。

 

 

 このような経緯等を踏まえて考察すれば,本件改正は,土地市場活性化等の目的のため早期に実現する必要性が一定程度あったと考えられ,損益通算の廃止と税率の引下げを一体として行うことで上記目的を達成するとともに,損益通算目的の駆け込み的不動産売却という弊害を防止するという観点からは,適用時期を平成16年1月1日からとすることにも経済政策上一定程度の必要性・合理性があったと認められる。

 

 

 しかしながら,他方で,本件改正の主要な理由となった不動産価格の下落傾向等は本件改正前から数年間は続いていたこと,前記認定のとおり,損益通算の制度の問題点については本件改正の数年前から指摘されていたこと,不動産譲渡に係る損益通算の制度は旧所得税法(昭和22年法律第27号)において設けられ,部分的な改正を経ながらも以後50年以上にわたって継続して認められてきたものであること,本件改正前後で租税を大幅に変更しなければならないような重大な経済状況の変動があったわけではないことなどは,遡及適用の必要性・合理性を減じる事情ということができる。

 

 

 (2)本件改正の国民への周知状況について

 本件改正は,平成16年1月1日以降の建物等の譲渡について損益通算を認めないとするものであるから,その予見可能性を基礎付ける事情は,平成15年12月31日以前に生じたものに限られる。そこで,国民が,同日以前に,本件改正について,個別的,具体的にどの程度の予見可能性を有していたかについて検討する。

 ア 証拠(乙6,11の1ないし4,乙31,32の1,2,乙33ないし37,乙38の1,2)によれば,次の事実が認められる。

(ア)平成15年12月17日,与党が平成16年度税制改正大綱を取りまとめた。

(イ)平成15年12月18日,日本経済新聞の4面,朝日新聞朝刊の12面,読売新聞朝刊の13面,毎日新聞朝刊の13面において,平成16年度税制改正大綱の要旨が報じられ,建物等の長期譲渡所得に係る損益通算を廃止する内容等の記事が掲載された。このうち,日本経済新聞の記事にのみ,平成16年分以後の所得税について適用されることが記載され,その対象となる譲渡の時期が平成16年1月1日以後であることを知り得るものとなっていた。これらの記事は,いずれも,新聞記事の段組みの記載で2行ないし13行の小さいものであった(乙11の1ないし4)。

 また,平成15年12月18日,インターネット上に,上記各新聞の記事として,各記事と同内容の記載が掲載された(乙6)。

 同月22日,週刊税のしるべ第2626号(財団法人大蔵財務協会税のしるべ総局発行)の2面及び週刊税務通信No.2801(税務研究会発行)の5頁において,本件改正(対象となる譲渡の時期も含む。)についての記事が掲載された。前者は,新聞記事同様の段組みの記載で12行のもの,後者は,A4・横書き2段組の記載で7行のものであり,これらの掲載誌の発行部数,読者の範囲等は不明である(乙34,37)。

 同月26日,日本経済新聞朝刊において,本件改正(対象となる譲渡の時期も含む。)についての記事が掲載された。これは,段組みの記載で10行程度のものである(乙31)。

 同月30日,住宅新報(株式会社住宅新報社発行)において本件改正(対象となる譲渡の時期も含む。)についての記載が掲載された。これは,新聞記事同様の段組みの記載で7行と別表の3行程度のものである(乙32の1)。

 イ 上記認定事実によれば,本件改正の要旨が公にされたのは与党が平成16年度税制改正大綱を発表した平成15年12月17日であるが,これが一般国民に報道されたのは,初めて新聞報道及びインターネット上に掲載された同月18日であって,これは損益通算が認められなくなる日のわずか2週間前である。

 また,同日以後の報道等のうち,インターネット上の記事,週間税のしるべ,週刊税務通信及び住宅新報は,発行部数,読者の範囲等は不明であるが,税や不動産の専門家等でない通常の社会生活を営む国民の間ではそれほど多く流通しているものではないことが推認され,しかも本件改正についての記事はかなり小さなものであるから,これによる国民への周知はさほど期待できない。

 日本経済新聞(同月18日及び同月26日掲載)は,これと異なり,一般国民の間に相当程度の流通量があるものであるが,いずれの記事も半ばの紙面に掲載された小さなものであって,これによって図られる国民への周知の程度には限界がある。

 なお,上記のような国民への周知は,本件改正の内容が与党の平成16年度税制改正大綱に盛り込まれたことを伝えるものに過ぎず,法律改正自体を明言するものではない。

 以上によれば,平成15年12月31日時点において,本件改正の内容が国民に周知されていたといえる状況にはなかったというべきである。

 

 

 

 (3)本件改正が国民に与える不利益の程度

 

 ア 建物等の購入・譲渡に伴って生じる譲渡損失は,一般国民にとって数百万円から数千万円という大きな金額になることも珍しくないから,その損益通算を認めないとする本件改正によって国民が被る経済的損失は多額に上ることも少なくない。

 

 イ 本件において原告が被った不利益の程度をみると,前記前提事実に加え,証拠(甲16)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。

 

 原告は,関東,関西,福岡等広域の転勤がある会社に勤務する給与所得者であったが,昭和44年に実父を失い,以後実母を扶養する世帯主となった。原告は,平成4年2月,自己資金に加え,会社の社内融資住宅貸付金制度(3000万円。25年償還,退職金との相殺条件であり,抵当権等の設定は不要であった。)及び住宅金融公庫(1000万円)から合計4000万円を借り入れ,横浜市泉区内所在の郊外丘陵地にある居住用マンション1戸を購入し(以下「横浜のマンション」という。),以後,実母及び実姉と同居して二人を扶養しながら,月々合計約22万円のローン返済を続けたが,平成7年ころから,ローン返済の経済的負担や日常生活の利便性の問題などから,横浜のマンションの住み替えの必要性を感じるようになった。

 

 原告は,平成9年5月,横浜のマンションを代金6100万円で売却し,住宅金融公庫からの借入金残額974万円を一括返済してローン返済の負担を減少させるとともに,売却金の残額で福岡市内の本件譲渡物件を代金約4837万円で購入し,社内融資住宅貸付金の返済は引き続き給与から返済することにした。横浜のマンションを売却した際,原告には約3000万円の譲渡損失が発生したが,不動産仲介業者からアドバイスを受けて,この譲渡損失と他の所得との損益通算ができることを初めて知り,平成9年度の確定申告により,所得税183万7500円が還付され,平成10年の住民税が免除されて,この制度を理解した。

 

 その後,原告は,扶養する実母が大腿骨を骨折するなどして近い将来車椅子を使用せざるを得ない状況になり,平成13年ころからバリアフリー住宅への住み替えを検討していたところ,平成15年に隣接地に介護設備を備えたマンション建設が始まったので,購入申込みをし,平成16年1月,本件譲渡資産の売却を不動産仲介業者に依頼し,同年3月10日,本件譲渡資産を代金2600万円で売却するとともに,この金員と退職後の生活のための蓄えであった預貯金2000万円を充て,同月24日,介護設備を備えた本件買換資産を購入した。原告は,これらの売買の際,不動産仲介業者から,本件改正の話を聞いたことはなく,翌年の確定申告で譲渡損失の損益通算を行う準備として諸経費を含む領収書等を保管していた。

 

 

 原告は,平成16年1月,60歳の定年を待たず,勤務していた会社を早期退職した。

 

 原告は,平成17年3月,約173万円の還付を受けようとして確定申告を行おうとしたところ,本件改正により損益通算ができなくなったことを知らされた。

 

 原告が,後に,不動産仲介業者に苦言を呈したところ,本件改正は耳にしていたが,改正前であったので言及しなかったとの説明を受けた。

 

 

 ウ 損益通算廃止に対する特例措置について

 

 本件改正は,国民の不動産譲渡・買換えに伴う損益を考慮し,比較的低所得である者に損益通算を認め,その経済的不利益を防止するために,特例措置(新措置法41条の5,41条の5の2)を設けたが,原告は,生活上の必要から3回建物の買換えを行い,最初の建物の購入のために借りた会社からの住宅借入金(退職金と相殺条件)を長年にわたって返済していたものの,本件譲渡資産や本件買換資産に係る住宅借入金を有していなかったため,上記特例措置の適用を受けることができなかった(なお,上記特例措置を知っていれば,本件買換資産に住宅借入金を利用して,その適用を受けることは可能であったことがうかがわれる。)。

 

 

 (4)総合判断

 

 本件改正で遡及適用を行う必要性・合理性

 

(とりわけ,損益通算目的の駆け込み的不動産売却を防止する必要性など)

 

は一定程度認められはするものの,

 

損益通算を廃止するかどうかという問題は,その性質上,その暦年途中に生じ,あるいは決定せざるを得ない事由に係っているものではないこと,

 

本件改正は生活の基本である住宅の取得に関わるものであり,これにより不利益を被る国民の経済的損失は多額に上る場合も少なくないこと,

 

平成15年12月31日時点において,国民に対し本件改正が周知されているといえる状況ではなかったことなどを総合すると,

 

本件改正の遡及適用が,国民に対してその経済生活の法的安定性又は予見可能性を害しないものであるということはできない。

 

損益通算目的の駆け込み的不動産売却を防止する必要性も,駆け込み期間を可及的に短くする限度で許容されるのであって,それを超えて国民に予見可能性を与えないような形で行うことまでも許容するものではないというべきである。

 

 そうすると,本件改正は,上記特例措置の適用もなく,損益通算の適用を受けられなくなった原告に適用される限りにおいて,租税法規不遡及の原則(憲法84条)に違反し,違憲無効というべきである。

 

 以上によれば,原告については,本件譲渡資産の譲渡所得の金額の計算上生じた損失の金額について他の所得との損益通算を認めるべきであり,これを認めなかった本件通知処分は違法であるから,これを取り消すべきである。

 

 4 よって,原告の請求は理由があるからこれを認容することとし,主文のとおり判決する。

 

 (裁判長裁判官・岸和田羊一,裁判官・桂木正樹,裁判官・関川亮介)

 

 別表 1〈省略〉