政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうに

 

 

 

 

 

 

 「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやう」について検討します。

 

 

 

 

 

 

 

 国家権力と戦争の本質は国民に惨禍をもたらすものにしかすぎない。

 

 

 田村理教授は次のように述べられている。

 

 

 「愛しい人をまもりたいと本気で思うなら、その側を離れてはならない。仮に簡単に殺されたとしても、愛しい人をまもりたいと思うならそれぐらいの覚悟が必要だ。」(『国家は僕らをまもらない』朝日新聞社2007年)

 

 

 

 「「愛しいもの」をまもるために戦おうと熱い思いをたぎらせても、「愛しいもの」はより無防備に危険にさらされる」

 

 

 ことになる。

 

 

 一方、西部進先生は、「「核に対抗できるのは核だけである」という事実はどこまでも残るのです。」(『核武装論』講談社現代新書2007年)

 

 

 

 そして、「生命を大量破壊しうる兵器に正面から取り組まなければ精神の大量破壊が生じる」

 

 

 とも述べられている。

 

 

 ともに前提としてるのは、「死」が他者から無理やりもたらされるもののようだ。

 

 

 より覚悟が必要なのは田村先生の理屈だ。精神の大量破壊が既に生じているのであれば、核武装も一理はあることになる。

 

 

 

 改憲 国民はどのように判断するのか・・・

 

 

 いずれをとっても「死」は他者から無理やりもたらされるものなのか。