難民性が認められた事例(3)

 

 

 

 退去強制令書発付処分無効確認等請求事件(第一事件)、難民の認定をしない処分取消請求事件(第二事件)東京地方裁判所判決/平成14年(行ウ)第75号、平成14年(行ウ)第80号、判決 平成16年5月27日、判例時報1875号24頁について検討します。

 

 

 

 

 

 

【判示事項】

 

 

一 出入国管理及び難民認定法四九条一項の異議申出に理由がない旨の法務大臣の裁決の行政処分性(消極)

      

 

二 アフガニスタン国籍を有するイスラム教シーア派ハザラ人の原告に対する難民不認定処分が原告の難民該当性を看過した違法な処分であるとして取り消されるとともに、同人に対する退去強制令書発付処分が難民を迫害のおそれのある国に送還することを禁じた難民条約三三条に違反する重大な瑕疵があり無効であるとされた事案

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

主   文

 

 

一 原告の被告法務大臣が原告に対し平成一三年八月二九日付けでした裁決が存在しないことの確認を求める主位的訴え、同裁決が無効であることの確認及び同裁決の取消しを求める予備的訴えをいずれも却下する。

 

二 被告東京入国管理局成田空港支局主任審査官が原告に対し平成一三年八月三〇日付けでした退去強制令書発付処分が無効であることを確認する。

 

三 被告法務大臣が原告に対し平成一三年八月二九日付けでした難民の認定をしない処分を取り消す。

 

四 訴訟費用は被告らの負担とする。

 

       

 

 

 

 

 

事実及び理由

 

第一 請求

 (第一事件)

 一 (主位的請求)

 被告法務大臣の原告に対する出入国管理及び難民認定法四九条一項に基づく原告の異議の申出は理由がない旨の裁決が存在しないことを確認する。

 (予備的請求)

 (1) 被告法務大臣の原告に対する出入国管理及び難民認定法四九条一項に基づく原告の異議の申出は理由がない旨の裁決が無効であることを確認する。

 (2) 被告法務大臣の原告に対する出入国管理及び難民認定法四九条一項に基づく原告の異議の申出は理由がない旨の裁決を取り消す。

 二 主文第二項同旨

 (第二事件)

 主文第三項同旨

 

 

 

 

 

第二 事案の概要

 原告は、平成一三年七月二日に本邦に不法入国した者であるところ、同日、東京入国管理局(以下「東京入管」という。)成田空港支局入国警備官の違反調査を受け、同月六日に同支局入国審査官により出入国管理及び難民認定法(以下「法」という。)二四条一号に該当する旨の認定がされ、同月一七日に同認定に誤りがない旨が判定されたため、同日被告法務大臣に対し、異議の申出をしたが、被告東京入管成田空港支局主任審査官(以下「審査官」という。)は、同年八月二九日に被告法務大臣が上記異議の申出に理由がない旨の裁決(以下「本件裁決」という。)をしたとして、翌三〇日、原告に対し、退去強制令書(以下「退令」という。)を発付した(以下「本件退令発付処分」という。)。また、原告は、同年七月三日、東京入管成田空港支局において、難民認定申請をしたところ、被告法務大臣は、同年八月二九日、原告について難民の認定をしない旨の処分をした(以下「本件不認定処分」といい、本件裁決、本件退令発付処分と合わせて「本件各処分」という。)。

 本件は、原告が、イスラム教シーア派に属するハザラ人であり、反タリバン勢力であるハラカット・イスラミの元司令官及び中央委員会のメンバーであるため、本件各処分当時、アフガニスタンにおいて、タリバン勢力から迫害を受けており難民の地位に関する条約(以下「難民条約」という。)上の難民に該当する等と主張して、本件裁決の不存在確認(予備的に本件裁決の無効確認ないし取消し)及び本件退令発付処分について無効確認を、本件不認定処分について取消しを求めるものである。

 

 

 

 

 

 一 前提となる事実(括弧内に認定根拠を掲げた事実のほかは、当事者間に争いのない事実か、弁論の全趣旨により容易に認定できる事実である。)〈編注・本誌では証拠の表示は一部を除き省略ないし割愛します〉

 (1) 原告は、一九六四(昭和三九)年一二月二五日に出生した、アフガニスタン国籍を有するイスラム教シーア派に属するハザラ人である。

 (2) 原告は、パキスタン、タイを経て、平成一三年七月二日、便名等不詳の航空機により新東京国際空港(以下「成田空港」という。)に到着して本邦に不法入国した。

 (3) 東京入管成田空港支局入国警備官は、平成一三年七月二日、原告の違反調査を実施し、原告が法二四条一号に該当すると疑うに足りる相当の理由があるとして、被告審査官から収容令書(以下「本件収令」という。)の発付を受けた。

 (4) 原告は、平成一三年七月三日、東京入管成田空港支局において、被告法務大臣に対し、難民認定申請をした(以下「本件難民申請」という。)。

 (5) 東京入管成田空港支局入国審査官は、平成一三年七月三日、同月四日及び同月六日、原告に対して、違反審査を実施し、同日、原告が法二四条一号に該当する旨を認定し、原告にこれを通知したところ、原告は、同日、同支局特別審理官に対し、口頭審理を請求した。

 (6) 東京入管成田空港支局特別審理官は、平成一三年七月一七日、原告について口頭審理を実施し、入国審査官の上記認定に誤りがない旨を判定したところ、原告は、同日、被告法務大臣に対し異議の申出をした(以下「本件異議申出」という。)。

 (7) 被告法務大臣は、平成一三年八月二九日、本件異議の申出について理由がない旨の本件裁決をしたとして、その旨を被告審査官に通知し、被告審査官は、翌三〇日、原告に本件裁決がされたとの通知があったことを告知するとともに、本件退令発付処分をした。

 (8) 被告法務大臣は、平成一三年八月二九日、原告からの本件難民申請について、不認定とする旨の本件不認定処分をしたところ、原告は、同日、同被告に対し、異議の申出をしたが、被告法務大臣は、同年一二月四日、同異議の申出に理由がない旨を決定し、同月一一日、原告に通知した。

 (9) 原告は、平成一四年二月一五日、被告法務大臣に対し、本件裁決の不存在確認(予備的に本件裁決の無効確認ないし取消し)を求めるとともに、被告審査官に対し、本件退令発付処分の無効確認を求める訴え(第一事件)を提起し、同月一九日、被告法務大臣に対し、本件不認定処分の取消しを求める訴え(第二事件)を提起した。

 (10) 原告は、平成一四年三月七日、仮放免許可を受け、現在肩書住所地に居住している。

 

 

 

 

 

 二 争点及び争点に関する当事者の主張

 本件の争点は、本件裁決の存否及び本件各処分の適法性であり、後者の内容は原告の難民該当性である。なお、原告は、従前、各処分の手続違反の主張をしていたが、平成一五年二月三日付け意見書において、主要な争点は原告の条約難民該当性の有無であることを主張するとともに、同月一三日付け意見書において、原告の難民該当性以外の争点については、第一審において争わない旨を重ねて明らかにしたことが当裁判所に明らかである。

 

 

 

 (1) 被告らの主張

 ア 本件不認定処分の適法性について

 原告は、「人種」、「宗教」及び「政治的意見」を理由に、国籍国において迫害を受けるおそれがあり、国籍国の保護を受けることができないとして本件不認定処分の取消しを求めているが、原告の主張は、以下のとおり理由がない。

 

 

  (ア) 難民、迫害の意義について

 

 法に定める「難民」とは、難民条約一条又は難民議定書一条の規定により難民条約の適用を受ける難民をいうところ(法二条三号の二)、同規定によれば、難民とは、「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの及び常居所を有していた国の外にいる無国籍者であって、当該常居所を有していた国に帰ることができないもの又はそのような恐怖を有するために当該常居所を有していた国に帰ることを望まないもの」とされている。そして、その「迫害」とは、「通常人において受忍し得ない苦痛をもたらす攻撃ないし圧迫であって、生命又は身体の自由の侵害又は抑圧」を意味し、また、上記のように「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する」というためには、「当該人が迫害を受けるおそれがあるという恐怖を抱いているという主観的事情のほかに、通常人が当該人の立場に置かれた場合にも迫害の恐怖を抱くような客観的事情が存在していることが必要である(東京地裁平成元年七月五日判決・行裁例集四〇巻七号九一三頁、東京高裁平成二年三月二六日判決・行裁例集四一巻三号七五七頁)。

 ある者が難民条約所定の難民に該当するか否かを確認する難民の認定は、上記難民の定義に照らし、申請者各人につき、その申請内容の信ぴょう性等も吟味し、各人の個別の事情に基づいてされるべきであるところ、難民であることの立証責任は、申請者が負うべきである。つまり、いかなる手続を経て難民の認定手続がされるべきかについては、難民条約に規定がなく、難民条約を締結した各国の立法政策にゆだねられているところ、我が国においては、法六一条の二第一項において、被告法務大臣は、申請者の「提出した資料に基づき、その者が難民である旨の認定を行うことができる」と規定し、法六一条の二の三において、被告法務大臣は、申請者により「提出された資料のみでは適正な難民の認定ができないおそれがある場合その他難民の認定又は取消しに関する処分を行うため必要がある場合には、難民調査官に事実の調査をさせることができる」と規定していることからも明らかなとおり、難民認定申請者が、まず自ら条約に列挙された事由を理由として迫害を受けるおそれがあるという恐怖を抱いているという主観的事情があり、かつ、通常人が当該人の立場におかれた場合にも迫害の恐怖を抱くような客観的事情も存在していることを認めるに足りるだけの資料を提出することが求められている。外国人である申請人が難民であるか否かを判断する資料を、我が国が有権的に当然に把握できるものではない。

 

 

 

  (イ) シーア派・ハザラ人に属することのみをもって、難民該当性が認められることがないこと

 

 

  a ラバニ政権成立(一九九二(平成四)年)以降のアフガニスタンにおいて、ハザラ人を基盤とし、又はハザラ人が含まれるグループとして、イスラム統一党マザリー派(ハリリ派)、同アクバリー派、イスラム運動(ハラカテ・イスラミ)、イスラム国民運動党(ドストム将軍派)、タリバンがある。そして、各グループは、それぞれ複雑な対立構造の下に抗争を繰り返しており、タリバン台頭以前のアフガニスタン情勢は、ラバニ大統領派とヘクマティール首相派の双方にハザラ人を主体とするグループとパシュトゥーン人を主体とするグループの双方が属し、ハザラ人同士、パシュトゥーン人同士の抗争を含め複雑多岐にわたる抗争関係が存在しており、アフガニスタン全土が混沌とした内戦状態だったものであるから、特定の民族や集団について、常に当該民族や集団等が一方的に被害者であった等と断じることはできない。

  b 次に、タリバン台頭後のアフガニスタンに関しても、シーア派・ハザラ人であることのみで難民該当性が認められるものではない。

 すなわち、被告提出の書証等に記載されているとおり、タリバン政権下において発生した人権侵犯の主要な要因は、宗教的又は民族的特性というよりも、むしろタリバンに対し、軍事的又は政治的に対立する者であったか又はそのように解されたことによると評価することが適当である。

 そして、タリバンが、ハザラ人を迫害の対象とすることを意図する旨の公式見解を出したとの報告はいかなる国際機関等からも示されていない。さらに、タリバンは、パシュトゥーン人全体を代表するものでもないのであって、タリバンと対峙する北部同盟側にも多くのスンニー派又はパシュトゥーン人がいたという事実からは、むしろ、タリバンと北部同盟との間の対立構造が、宗教的又は民族的背景によるものというよりは、むしろ軍事的又は政治的な背景によるものであったことをうかがわせるものである。

  c 原告は、ハザラ人迫害の根拠として、マザリシャリフ、バーミヤン等における虐殺事件を指摘するが、これらについては、虐殺された被害者の数やその実態等について判然としない上、これらの虐殺は、北部同盟との戦闘地域に集中しており、両陣営の軍事衝突に伴い互いの報復行為として行われた側面が強いものといえる。

  d 諸外国政府においても、およそハザラ人に属することのみをもって難民認定を行うといった取扱いは行われておらず、申請者の迫害に係る個別の具体的事情等を考慮した上で難民認定の可否が判断されている。

  e アフガニスタン国外避難民の本国への帰還については、アフガニスタン暫定行政機構発足後の平成一四年三月に国連帰還プログラムが開始された以降、二五〇万人のアフガニスタン避難民がパキスタン及びイランから帰国する等、帰還が着実に進んでいる。また、アフガニスタンでは平成一六年一月に新憲法が採択される等、復興が着実に進んでいる。

 

 

  (ウ) 原告が難民に該当しないこと

 

  a 原告がタリバンを批判する意見を発表したため、タリバンから出頭命令を受けたとする各証拠が偽造であること

 原告は、タリバンから出頭命令を受けたと主張し、その根拠として二〇〇一(平成一三)年五月一六日付けサハール紙(甲六九)に、原告がタリバンを批判するインタビュー記事が掲載され、この記事を受けて同月二三日付けシャリアット・デイリー紙(甲七〇)に原告を発見したらタリバンに通報するようにとの記事が掲載されたとする。

 しかし、上記サハール紙は、紙面左項右上部には二〇〇一年五月一六日を発行日とする記載があるのに対し、同紙面の右項右上部には同月二二日を発行日とする記載がされており、日刊紙としてあり得ない表記がされていること、一体の記事の一部がダリ語、他の部分がパシュトゥーン語で書かれている上、両者の内容自体が全く連続していないこと、サハール紙発行元から被告が入手した同月一六日付け同紙及び同月二二日付け同紙は、原告の指摘する記事は掲載されていないこと等から、偽造されたものであることが明らかである(アフガニスタンとの国境に近いパキスタン・ペシャワールには、「旅行代理店」を自称するブローカーが多数存在し、旅券やタリバンによる召喚状等の文書を偽造して売りさばいている実態があるとされており、原告が上記偽造の新聞を提出したことも、こうした実態を背景とするものと考えられる。)。

 上記サハール紙が偽造であるとすると、同紙の記事を受けて作成されたと原告が主張する二〇〇一年五月二三日付けシャリアット・デイリー紙、同年六月一四日付けのタリバンの指名手配書(甲七四)、同年八月一四日付け呼出状(甲七五)も偽造であるというほかない。

 原告が、本人尋問において、上記記事に関して行われたはずの取材の状況について、その詳細を答えられないこと等からすると、取材が実際に行われたか自体が極めて疑わしいものであるし(平成一五年九月一二日実施の本人尋問(以下「原告本人四日目」という。)七一項以下)、原告の主張するサハール紙及びシャリアット・デイリー紙の入手経路に変遷がみられることからも、原告の供述には信用性が認められないというべきであり、本件では、原告自身が甲第六九号証の偽造に関与していた疑いが極めて高いこと等からすると、この事実は原告の供述全体の信用性を揺るがす事実である。

  b ハラカテ・イスラミの司令官としてタリバンとの戦闘に従事していたとする各証拠も偽造であること

 原告は、ハラカテ・イスラミの司令官であり、タリバンとの戦闘に参加していたことを裏付ける証拠として、《証拠略》を提出するが、ハラカテ・イスラミの任命書、感謝状等の各証拠は、いずれも偽造である疑いが強い。すなわち、原告が経営者の一人であるUAEに所在する「アル・ヤシール」の社員であったC・Dは、E・Fとの偽名を使って本邦に六回目の入国をし、ハラカテ・イスラミの構成員であるとして難民認定申請をしたが、同人が提出したサハール紙(タリバンが同人の財産を没収する等したという内容のもの。)は偽造されたものであることが判明し、同人は難民不認定処分を受け、異議審査中にアフガニスタンに向けて自費出国をした。この経緯からは、同人が上記申請の際に提出した上記各任命書等も偽造であると解されるところ、原告が提出した《証拠略》は、いずれもE・Fが提出した書面と各書面上部の定型の記載欄及び書面下部にされたサインが酷似しているし、《証拠略》についても、E・Fが提出した同種の文書と書式等が酷似している。そして、原告と上記C・Dが会社の経営者と社員という密接な関係を有すること、両名がいずれも偽造のサハール紙を難民認定申請の証拠として提出していること等を合わせ考えると、原告の提出した上記各書証も偽造である疑いが強いというべきである。

  c 原告の供述に信ぴょう性が認められないこと

  (a) 原告の供述には、真にハラカテ・イスラミの司令官であったとすれば、不自然な供述が多く含まれる上、原告が仮にハラカテ・イスラミの党員であったとしても、原告は自分の活動内容を「情報収集の仕事」及び「ハラカテ・イスラミの広報活動として反共産政権のビラ配布など」と供述しているから、その内容は軽微なものにすぎず、期間も一九八一(昭和五六)年の入党から翌年に秘密警察に逮捕されるまでの一年間と、ハラカテ・イスラミからの要請を断り切れず活動を再開したとする一九九八(昭和六三)年からナジブラ政権に逮捕された翌年までの一年間であり、合わせてわずか二年間にすぎないのであるから、このような活動により司令官に任命されたとする原告の供述には信用性が認められない。原告の活動は、専ら貿易業であったというべきであり、ハラカテ・イスラミ党員としての活動実績はほとんど皆無であったというべきであるし、原告が二度にわたりカルマル、ナジブラ両政権に逮捕されたと述べる部分については、仮にこれが事実であったとしても、現在アフガニスタンに共産主義政権は存在しないのであって、原告の迫害を基礎付けるものとは認められない。

  (b) 原告が真実司令官としてタリバンと交戦していたのであれば、なぜ偽造のサハール紙を証拠として提出しなければならなかったのかが全く不明というほかなく、原告がハラカテ・イスラミの司令官としてタリバンとの戦闘に参加していたとすること自体、疑わしいものといわざるを得ない。

 なお、念のため指摘すると、ハラカテ・イスラミの司令官であれば当然に難民となるものではなく、迫害を受けるおそれがあるとする事情を個別に検討し、難民該当性が判断されなければならない。

  d 原告の真の目的は本邦での不法就労活動であること

  (a) 原告は、UAE所在のアル・ヤシール社の共同出資者であり、経営者であるところ、平成九年二月七日の入国を初めとして、今回までに計六回の本邦への入国歴があり、そのいずれも渡航目的を「BUSINESS」又は「CAR BUSINESS」としており、中古自動車部品の仕入れ等を行っていた。原告は、平成九年以降、UAEのシャルジャにおいて在留資格を取得しており、経営するアル・ヤシール社の営業利益を上げ、生活の拠点としている。また、パキスタンにおいても査証を取得し、正規に出入国を繰り返して中古自動車部品の販売業を行い、在イスラマバード日本大使館において三回、在ドバイ日本領事館において三回の計六回の本邦への渡航証明書及び査証の取得申請をしている。

 このように原告は、平成七年以降、正規の手続を取って日本、パキスタン、UAEの三カ国を頻繁に行き来し、一貫して中古車部品の商売を行っているところ、この間日本を含むいずれの国においても一時庇護を求めたり、難民申請を行うことはなかったし、またその手続きを調べたり準備を進めるようなこともなかった。

 原告は、アフガニスタンの状況が改善される可能性を信じていたため、難民認定申請等を行わなかった旨を弁解するが(原告本人四日目二四〇項)、原告の最後の本邦出国である二〇〇〇(平成一二)年七月一六日の時点と本邦に不法入国した二〇〇一(平成一三)年七月二日の時点を比較して特段、タリバン政権の勢力が伸張したような事実がないのに対して、むしろ例えば原告の三回目の本邦出国時(平成一〇年七月一日)と四回目の入国時(平成一一年一月二七日)との間に平成一〇年八月八日マザリシャリフ陥落とパキスタンなどによるタリバン政権の国家承認といった事実が発生しているのであるから、その時点で難民認定申請を行うあるいは少なくともその準備をするのが合理的であると思われるのに、原告がしたのは中古自動車部品の商売のみであったもので、原告の弁解は不合理としかいいようがない。

 そして、六回目の出国時と今回の不法入国時との間において、原告の主張するサハール紙の反タリバンプロパガンダ記事掲載から、これを非難するタリバン機関誌シャリアット・デイリー紙記事掲載、指名手配書の発付の事実が発生したとのことであるが、これらの事実が偽造証拠による虚偽のものであることは前記のとおりである。

  (b) 原告は、今回の不法入国後においても、本邦で中古自動車部品等の仕入れ資金の送金を受けるために開設してあった口座にUAE所在のアル・ヤシール社から二〇〇万円の送金を受け(原告本人四日目六〇、六二項)、本邦において中古自動車部品を買い付けてはアル・ヤシール社に向け輸出しているほか、本邦においても中古自動車部品の売買を行って多額の利益を上げている(同五六、五七項)。

 この商売によって原告が得ている収入は、極めて多額であり、現に原告は、UAEに会社を設立し、パキスタン・ペシャワール屈指の豪邸が立ち並ぶ高級住宅街であるハヤタバードに豪邸を建て裕福な生活を送っていた。

  (c) 原告は今回の本邦入国の時点において正規の旅券を所持しており、UAEの滞在許可も有していたのであるから、日本以外の第三国に査証を申請するなりして正規に渡航する選択肢が存在した。特に隣国のイランは、原告の宗教と同じくイスラム教シーア派を国教とし、言語はダリ語と非常に近いペルシア語であり、多くのアフガニスタン人が生活し、ハラカテ・イスラミの事務所が存在し、その支援を受けられるばかりか、原告が真実ハラカテ・イスラミの司令官ならばまさに司令官として活動するのに最適であることは明白であり、かつ、イランも難民条約の締約国である等、原告の安全のためにまず第一に検討すべき渡航先であると思われるところ、原告は、避難先として何らイランを検討することはなかった(原告本人二日目六四項)。また、原告が過去に訪れた経験があるという意味ならばドイツも同様であり、なぜに日本でなければならなかったのか原告から合理的な説明はされていない。原告は、一万五〇〇ドルもの多額の費用をかけて日本に不法入国しており、しかもアフガニスタンから脱出してきた家族を原告が暮らしていけないほど危険なパキスタンにあえて残したことになるが、原告が日本を選んだ真の理由は、日本が中古自動車部品の仕入れ先であったからにほかならない。

  (d) 中古自動車部品商売に従事する原告のようなアフガニスタン人にとって、仕入れ先である日本に入国できないことは商売における死活問題となることは明らかである。原告は、平成「一二年一〇月一八日に在パキスタン日本国大使館に渡航証明書及び査証の申請を行ったものの、以前は即日か翌日に発給されたそれらについて、結論が出るまで一か月かかると言われたこと(原告本人二日目九五項、九六項)を認めているが、平成一二年から同一三年ころ、在パキスタンや在UAEの日本大使館において、少なくない数の中古自動車部品業を営むアフガニスタン人の本邦への渡航証明書及び査証の発給が不許可とされた事情がうかがわれることも合わせ考えると、本件は原告が渡航証明書等の発給が極めて困難と考え、難民を偽装することを計画したものとみるべきである。

  (c) 被告らの調査によれば、渡航証明書及び査証の申請をしながらこれらを交付されず(あるいは審査中に)本邦に不法入国したアフガニスタン人難民認定申請者が東京地方裁判所に訴訟係属した者に限っても一一名おり、平成一二年以降、アフガニスタン人で難民認定申請をした者のうち、既に本邦から退去強制されている二一名のうち、実に一七名が原告と同じ中古自動車部品業を営んでいた者である。さらに現在、東京地方裁判所に係属中の難民不認定等取消訴訟の原告三六名のうち、中古自動車部品業を営んでいた者が二二名に上る。通常、特定の職業の者が特定の時期に一斉に難民認定申請をすること自体不自然であり、これらの者が相互に関係していると推認されることからすれば、原告の関係者であったC・Dに限らず、過去の出入国歴を秘し偽名や偽造と思われる各種書類を提出して難民認定申請を行う手口がアフガニスタン人の中古自動車部品業者に浸透していることを推認させるものである。

  e 以上によれば、原告が迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するとは到底認めることができないから、本件不認定処分は適法にされたものというべきである。

 イ 本件裁決の適法性について

 原告は、本件裁決は裁決書が作成されておらず、不存在である旨を主張するが、この主張は理由がない。

 次に、原告は、パキスタン人ブローカーに一万五〇〇米ドルを支払い、同人と共に便名等不詳の航空機に搭乗し、平成一三年六月二九日、パキスタン・イスラマバードを出発、名称等不詳の空港に到着して一泊した後、再び便名等不詳の航空機により、タイ王国(以下「タイ」という。)のバンコクと思われる空港を経由し、同年七月二日、有効な旅券又は乗員手帳を所持せず、かつ、法定の除外事由がないのに成田空港に到着し、もって本邦に不法入国した者であり、法二四条一号所定の退去強制事由に該当すると認められ、特別審理官の判定には何らの誤りもない。

 そして、原告が難民に該当しないことは、前記アのとおりであり、その他に原告に対し在留特別許可を付与するか否かの判断において格別積極的に斟酌しなければならない事情は見当たらず、アフガニスタンにおいては、避難民の帰還が進んでおり、原告が本国に帰国して生活することに支障はないから、法務大臣が在留特別許可を付与せずにした本件裁決に裁量権を逸脱濫用した違法があるということはできない。

 なお、原告が予備的に本件裁決の取消しを求めている点については、被告審査官は、平成一三年八月三〇日、原告に対し本件裁決の結果を告知するとともに本件退令を発付していることが明らかであるから、同年一二月一日をもって行政事件訴訟法一四条一項に定める出訴期間を徒過しているから、同訴えは不適法なものというべきである。

 ウ 本件退令発付処分の適法性について退去強制手続において、法務大臣から「異議の申出は理由がない」との裁決をした旨の通知を受けた場合、主任審査官は、速やかに退去強制令書を発付しなければならないのであって、退去強制令書を発付するにつき裁量の余地はないから、本件裁決が適法である以上、本件退令発付処分も当然に適法であるというべきである。

 エ 以上のとおり、本件不認定処分、本件裁決、本件退令発付処分はいずれも適法であるから、原告の各請求はいずれも棄却されるべきである。

 

 

 

 

 

 

 

 (2) 原告の主張

 被告法務大臣は、原告が難民であるにもかかわらず、原告のした難民認定申請を認めなかったのであるから、本件不認定処分は違法なものであって、取り消されるべきである。また、被告法務大臣は、原告の法四九条一項の異議の申出に対して、在留特別許可を認めずに異議の申出に理由がない旨の本件裁決をした旨を主張するが、本件裁決は裁決書が作成されていないという重大な方式の瑕疵を有するものであって不存在であり、仮にそうでないとしても、原告の難民該当性を看過した同被告の判断には重大かつ根本的な事実誤認による裁量権の逸脱があって、本件裁決は違法であるから、無効ないし取り消されるべきである。さらに、本件退令発付処分は、送還先をアフガニスタンとする点で、難民を迫害のおそれのある国に送還することを禁じた難民条約三三条一項、法五三条三項のノン・ルフールマン原則に違反しており、被告審査官独自の裁量権についても濫用があり違法なものであるから、無効である。

 ア 難民認定の際の立証基準の解釈の在り方

  (ア) 我が国の難民認定制度においては、難民条約上の難民をそのまま難民として認定することが義務付けられているから、いかなる者が難民として認定されるべきかは、難民条約の規定及び解釈により決せられるべきである。そして、難民認定の目的が、紛争解決や法的安定性の確保という一般の争訟の目的と異なること、難民認定制度は、証明対象を一般の争訟手続と異にすること、判断の誤りにより侵害される法益は重大であり、事後回復が不可能であることからすれば、難民認定手続における立証基準は、これまでの同手続の実務において形成されてきた様々なルール(例えば、後記の供述の信ぴょう性に関する議論や、灰色の利益のルール等)に共通する「難民の可能性のある者の取りこぼしをせず、できるだけ広く保護の網をかぶせる」という姿勢を念頭において検討されるべきである。

  (イ) 上記を前提とすると、難民条約締結国における判例で示された解釈も、難民認定手続における立証の在り方を考える重要な手がかりとなる。そして、アメリカ合衆国においては、「十分に理由のある恐怖」については、迫害を受ける可能性が五〇パーセント以下であっても、その者が抱く恐怖には十分に理由があるといえると判断されている(カルドサ・フォンセカ事件に関する一九八七年連邦最高裁判所判決)。また、カナダにおいては、同文言の解釈に際しては、迫害を受ける合理的見込み、あるいはそう信じる十分な基盤があれば足りる旨が示されている(アジェイ事件に関する一九八九年一月二七日ブリティッシュコロンビア州バンクーバー連邦控訴裁判所判決)。さらに、英国においても、同文言は、客観的な状況ではなく本人の立場に立った状況を前提に判断すべきである旨が示されているほか(シヴァクラマン事件に関する一九八七年一〇月一二日控訴裁判所判決)、オーストラリアにおいても、迫害発生率がたとえ五〇パーセント以下であっても十分に理由のある恐怖になり得ることが明らかにされている(チャン事件における一九八九年最高裁判所判決、オーストラリア難民再審査委員会一九九五年八月一一日決定及び同委員会一九九七年九月一七日決定等)。

 このように、諸外国の判例等は、「十分に理由のある恐怖」の立証について、極めて緩やかな判断基準を用いている。

  (ウ) 以上の検討によれば、「十分に理由のある恐怖」とは、客観的な迫害の可能性ではなく、主観的な恐怖に十分な理由があることであり、十分な理由とは、当該申請者がおかれた状況に合理的な勇気を有する者が立ったときに、帰国したら迫害を受けるかもしれないと感じ、国籍国への帰国をためらうであろうと評価し得る場合を指すものというべきである。

 イ 難民認定における信ぴょう性判断の在り方について

  (ア) 難民認定における信ぴょう性判断は、難民問題の特殊性や種々の要因(例えば、証拠収集が困難であるという物理的要因、申請者の心的ストレスによる記憶の変容等の心理的要因、言語的障害等の文化的要因、対審構造が取られていないことに由来する構造的要因)等にかんがみ、慎重な検討が必要である。

  (イ) したがって、難民認定手続に際しては、証拠の一部が信ぴょう性に欠けるとしてもすべての証拠を検証すべきであり、信ぴょう性を否定する場合には、合理的な理由に基づかなければならない。また、申請者の供述に一貫性や誠実性が認められる場合には、補強証拠がなくとも信ぴょう性を認めるべきであるほか、仮に証拠の一部に矛盾や不整合、証言内容の変遷等があってもそれを絶対視すべきではなく、申請者の証言にほとんど信ぴょう性が見いだせない場合であっても、出身国情報等から難民として認定される可能性があるというべきである。

  (ウ) さらに、前記(ア)の特殊性にかんがみれば、難民認定に際しては、「疑わしきは申請者の利益に」という原則(いわゆる「灰色の利益」の原則)が妥当するというべきであり、同原則は、カナダ、ニュージーランド、オーストラリア等の実務・判例で採用されている。

  (エ) そして、以上のような信ぴょう性判断の在り方は、難民認定行為をする機関のみにとどまらず、その処分の妥当性を判断する裁判所にも妥当するものである。

 ウ アフガニスタン一般情勢について

  (ア) ハザラ人は、二三〇〇年以上前から現在のアフガニスタン地域に居住する先住民族であり、一八八〇年代までは現在のアフガニスタン中央部に広がるハザラジャットという山岳地帯で完全な自治を確立していたものの、一八九〇年代に王位についたパシュトゥーン人の王によって決定的な変容を迫られ、以後三回にわたり反乱を起こすも失敗に終わり、それ以降ハザラ人は社会的、経済的に社会の最下層として差別を受けている。

  (イ) 一九八〇年代から一九九〇年代前半にかけて、ハザラ人は様々な政党を結成し、連合、解散を繰り返して来たが、一九九〇年代に入り、ヘズベ・ワハダット党とその指導者であるマザリ師を中心として結束した。しかし、ヘズベ・ワハダット党は、ナジブラ政権崩壊後に成立した暫定政権から閉め出され、暫定政権はペシャワールを拠点とするムジャヒディンにより構成されたため、結局のところシーア派ハザラ人は無視され、一九九三(平成五)年二月には、西カブールのアフシャール地区において数百人のハザラ人がラバニ大統領とその司令官マスードの命令により虐殺されるという事件が起きた。

  (ウ) ヘズベ・ワハダット党(以下「イスラム統一党」ということもある。)は、一九九五(平成七)年二月、マスード部隊の攻撃に対処するため、当時勢力を増大していたタリバンと停戦協定を結び、タリバンが西カブールの前線に入ることを許可したものの、タリバンはヘズベ・ワハダット党を援助することなく、政府軍の攻撃に耐えられず撤退する際に、マザリ師を連行する等して同党を裏切った。その後マザリ師は死体で発見されたことから、シーア派ハザラ人の活発な活動と苦闘は終局し、ハザラ人は、以後タリバン政権下で迫害を受けることとなった。

  (エ) タリバンは、アフガニスタンの最大民族であるパシュトゥーン人を主体とするイスラム原理主義の急進主義者であり、一九九五(平成七)年以降、急激に勢力を増大すると、一九九六(平成八)年九月にはアフガニスタンの首都カブールを占拠した。これに対しムジャヒディン各派は、反タリバン勢力として統一戦線(以下「北部同盟」ということがある。)を結成し、その後タリバン政権が崩壊するまで、両者の間の内戦が継続した。北部同盟は、ハラカテ・イスラミを含むタジク人を主体とするラバニ・マスード派、ウズベク人を主体とするアフガニスタン・イスラム運動、ハザラ人を主体とするイスラム統一党を中心としていた。

 少数民族であるハザラ人、タジク人、ウズベク人は、タリバン政権下において迫害対象になっていた。とりわけ、ハザラ人は、多くがイスラム教シーア派に属することから、タリバンによる組織的な殺害を含む迫害の対象とされ、一九九八(平成一〇)年八月八日にタリバンがマザリシャリフを攻略したときには、何千人ものハザラ人の一般市民が、計画的かつ組織的に虐殺され、生き残ったシーア派に対しては、改宗か死かの選択が迫られた。一九九八(平成一〇)年九月には、バーミヤンにおいて、同様にハザラ人の一般市民が虐殺された上、同年には、ヘズベ・ワハダット党の支持者ないし党員と疑われた七〇〇人以上のハザラ人が投獄されたこと等が報道されている。

  (オ) 二〇〇一(平成一三)年一二月、タリバンは、アフガニスタンにおいて統治機能を喪失し、同月二二日には、かつての北部同盟を中心とする暫定政権が発足したと報道された。しかし、アフガニスタンにおけるハザラ人迫害はタリバン誕生前からのものであり、タリバンが崩壊したとの報道のみでハザラ人に対する迫害の危険がなくなったと判断するのは早計にすぎる。同暫定政権において、ハザラ人勢力は、重要性の低い五つのポストを与えられたのみであり、北部同盟内部についても、分裂が危惧される状況にあった。

  (カ) 上記(オ)のような不安定な状況においては、タリバン崩壊及び暫定政権の発足という事実のみによりハザラ人迫害の歴史に本質的な変化が生じたと認めることはできない。したがって、本件各処分当時、シーア派ハザラ人は、シーア派ハザラ人であることのみをもってアフガニスタンにおいて、人種及び宗教を理由に迫害を受けるおそれがあったと認められる。実際に、諸外国においても、シーア派ハザラ人であることを理由として難民該当性が認められた例は数多く存在し、とりわけオーストラリアに関しては、一二八件の決定例を調査したところ、調査した期間内において、アフガニスタン国籍のハザラ人のうち、難民と認定されなかった者はいなかった。また、東京弁護士会からUNHCRへの照会に対する回答(以下「UNHCR回答」という。)においても、UNHCR本部が、二〇〇一年八月に各国事務所に対して発したガイドラインには、「特定地域出身の少数民族(主にシーア派)のアフガン人大多数については迫害の危険性が高いため(一九九八年のタリバンによるマザリシャリフの制圧がよい例である。)、同様の背景を有するアフガン人男性を集団別に集団認定に近い形での認定が正当化される」旨の記載がある。

 エ 原告の難民性について

  (ア) 原告は、本件各処分当時、民族的・宗教的な理由によりタリバン勢力から迫害を受けているイスラム教シーア派のハザラ人であり、反タリバン勢力であるハラカテ・イスラミの元司令官及び中央委員会のメンバーであったため、アフガニスタンに帰国すれば人種、宗教及び政治的意見を理由として、生命又は身体に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を抱いていたと認められ、難民条約上の難民に該当する。

  (イ) 原告の個別的迫害の状況は、以下のとおりである。

  a 原告は、イスラム教シーア派に属するハザラ人であり、三、四歳のころから、家族とともにカブールで生活するようになった。原告の長兄であるG・Hは、中古自動車部品の貿易・販売事業で生計を立てていたが、一九八〇(昭和五五)年ころから、ハラカテ・イスラミのメンバーとして活動するようになり、原告も一九七九(昭和五四)年にソ連がアフガニスタンに侵攻していたこと、ハザラ人やイスラム教シーア派が迫害を受けていたことから、アフガニスタンの民主化のためハラカテ・イスラミのメンバーとなる決意をし、一九八一(昭和五六)年ころからハラカテ・イスラミのメンバーとして活動を開始し、カブール担当の第五情報部門の責任者に任命され、情報収集などを行うようになった。

 他方で原告は、一九八一(昭和五六)年ころ、アフガニスタンの事業許可を取得し、中古自動車部品の貿易・販売事業で生計を立てるようになった。

 b 原告は、一九八二(昭和五七)年ころ、当時のカルマル政権によりハラカテ・イスラミの活動を理由として逮捕され、一か月以上身柄を拘束されたが、ハザラ人の一〇〇人以上の長老らが保証人となり、当時のカルマル政権で副首相を務めていたハザラ人のスルタン・アリ・キシュトマンに釈放を求めたために釈放された。

  c その後も原告は、事業で得た利益でハラカテ・イスラミを経済的に支援したり、同党の広報に携わる等の政治活動をしていたが、ハラカテ・イスラミの最高司令官であるサイード・フセイン・アヌワリ(以下「アヌワリ」という。)からの依頼を受け、カブールに潜入していたBBCのイギリス人ジャーナリストからインタビューを受け、現地を案内する等したため、一九八九(平成元)年ころ、当時のナジブラ政権により再び逮捕され、裁判で二年間の懲役を命じられたが、ナジブラ政権とムジャヒディンが一時的に和平合意をしたために、六か月後に恩赦により釈放された。原告は、これらの身柄拘束の際、金属製ケーブルで身体を殴られたり、電気ショックを受けさせられ、熱した棒を左腕に押しつけられる等の拷問を受けた。

  d 原告は、その後もハラカテ・イスラミのメンバーとして同党に経済的支援をしたほか、同党の重要なミーティング等に参加するようになった。その間、原告は一九八二(昭和五七)年ころから一九九一(平成三)年ころまで西ドイツを一年に一度ないし数度の割合で訪問して貿易を行う等した。また、原告は、アヌワリ等の司令官からの依頼を受けて、西ドイツに滞在するアフガニスタン人への連絡や、西ドイツ政府へハラカテ・イスラミの支援依頼をする等、当時の共産主義政権に批判的な活動をしたほか、西ドイツのテレビや新聞等からのインタビューに応じた。

 原告は、一九九〇(平成二)年ころ、中央カブールに衣類や日用品等を販売する店舗を他のアフガニスタン人と共同で購入して利益を二人で分配していたほか、長兄が有していた中央カブール等の店舗からも賃料を取得する等して、一九九二(平成四)年まで、これらの事業により生計を立て、利益をハラカテ・イスラミへの経済的支援等にも充てていた。

  e 一九九二(平成四)年三月ないし四月ころ、ハラカテ・イスラミを含むムジャヒディンは、カブールを制圧し、ナジブラ政権を崩壊させたが、その後ムジャヒディン間で内戦が始まり、当時ハラカテ・イスラミの副最高司令官の地位にあった原告の長兄G・H(西カブールでスカット・ミサイルの防衛を担当する司令官をしていた。)がこの内戦で殺害された。原告は、同人の弟であったため、他のハラカテ・イスラミのメンバーから信頼され、一九九二(平成四)年五月ころ、長兄を継いで西カブールでスカッド・ミサイルの防衛を担当する第三四部隊の司令官になり、六五〇人から八〇〇人くらいの部下を率いて活動を行うようになるとともに、ハラカテ・イスラミの中央委員会のメンバーに任命され、ヘクマティアルらのパシュトゥーン人のムジャヒディン勢力と戦ったところ、これらの活動が評価されアヌワリから感謝状を受けた。

 また、原告は、一九九三(平成五)年八月、ムジャヒディン間の内戦が一時的に停止した時期にアヌワリとともに停戦維持に関する任務に従事し、代表団の安全確保を行うなどしたところ、一九九四(平成六)年一月には、アフガニスタン・イスラム国の第九九〇部隊の司令官に任命された。

  f 原告は、一九九五(平成七)年一〇月、ハラカテ・イスラミの軍事部門の情報管理・規律維持の責任者に任命され、一九九六(平成八)年五月には、カブールで、各組織の衝突の防止及び治安維持のための部隊の司令官に任命され、六〇〇名の部下を率いて活動したものの、同年九月二七日、タリバンがカブールを制圧したため、約三か月間にわたり北カブール、トルクマンへと戦闘をしながら退避した後、自分や家族の命を守るためにアフガニスタンを出国することを決意した。

  g 原告は、一九九六(平成八)年一二月ないし翌年一月ころ、パシュトゥーン人に五〇〇万アフガニを支払い、身元を隠しながらパキスタンのペシャワールへ逃走した後、生計を立てるために他のアフガニスタン人二人と共同で貿易事業を行うことにし、一九九七(平成九)年二月ころ、日本の会社を紹介されて初めて来日した。

  h 原告は、日本からパキスタンに帰国後、UAEに滞在することにし、一九九七(平成九)年七月ころ、他の二人のアフガニスタン人とUAEのシャルジャに貿易事業の会社を設立したが、その後アヌワリからアフガニスタン国内のハラカテ・イスラミメンバーに経済的支援をする任務を与えられ、UAEにおける責任者として活動するようになり、UAE国内に滞在するハラカテ・イスラミのメンバーや支援者らへの連絡、会議等を開催してアフガニスタンの状況を話したりするほか、イランやパキスタンに滞在するメンバーと連絡を取っていた。

 原告は、メディアやジャーナリストからのインタビューに応じ、タリバンに批判的な内容を話したこと等により、ハラカテ・イスラミから感謝状の交付を受けた。

  i 原告は、一九九七(平成九)年八月から翌年七月までの間、五回にわたり短期滞在の在留資格を取得して来日し、中古自動車部品の貿易事業に従事しつつ、一九九八(平成一〇)年春ころには、ハラカテ・イスラミのミーティングに参加するためタジキスタンを経由し、アフガニスタン北部のタハールに行ったり、ハラカテ・イスラミに経済的支援をする等、同党の活動を続けていた。原告の活動は同党から評価され、原告は二〇〇〇(平成一二)年三月ころ、同党の中央委員会のメンバーに再登録された。

  j 二〇〇一(平成一三)年三月ころ、原告は、ハラカテ・イスラミの中央委員会の会議に参加した際、同党の週刊誌であるマルドゥムのインタビューに応じ、夕リバンに批判的な内容を述べ、この記事の掲載された同週刊誌は、二〇〇一(平成一三)年五月一四日に発行された。また、原告は、二〇〇一(平成一三)年五月ころ、伯母の葬儀のためにペシャワールの親戚の家を訪ね、その際ペシャワールの日刊紙であるサハールの記者のインタビューに応じたが、その中でも原告は、タリバンに批判的な発言をし、同記事は同紙に掲載された。

  k 原告は、上記のような反タリバン活動をしていたため、タリバンの諜報機関に個別に把握されることとなり、UAEに滞在していた二〇〇一(平成一三)年六月中旬ころには、カブールに居住していた妻の親戚であるI・Jから、原告の従兄弟であるK・Lが連行されたと聞いたほか、同月一九日、アヌワリから、タリバンが原告の指名手配書をパキスタン大使館、UAE大使館に送付しており、原告に身柄拘束の危険が迫っている旨の連絡を受けた。さらに翌二〇日には、UAEに駐在するタリバンの大使館から、原告の会社に対し、原告にアブダビの大使館に来るようにとの電話があった。原告は、これらの連絡を受け、自らの身柄拘束の危険が迫っていると感じ、同月二三日ころ、UAEからパキスタンのペシャワールへと出国した。

  l 一方、原告がペシャワールに入ったころ、原告は、パキスタンに滞在する親戚から、タリバンが伯母の葬儀を行った親戚の自宅を二度訪れ、原告の所在場所を尋ねたことを聞かされたほか、原告が中央カブールに有していた店舗及び自宅等がタリバンに没収されたり破壊された旨を聞いた。また、原告は、妻の兄であるM・N及びO・Pから、原告が指名手配された旨が記載されているタリバンの指名手配書や、シャリアット・デイリー紙、原告のインタビューの掲載されたサハール紙を受け取った。さらに原告は、パキスタンにおいてもタリバンの捜索を受けるようになったため、安全な国へ出国することを決意し、過去に日本滞在の経験があり、日本語や日本人の性格を多少知っていたことから、日本へ行くことを希望し、一万五〇〇米ドルと三枚の写真を渡して、ブローカーを使って、二〇〇一(平成一三)年六月二八日、ペシャワールからイスラマバードへ行き、イスラマバードから経由地の空港に空路で移動した後、バンコクと思われる空港をさらに経由し、同年七月二日、成田空港に到着し、同日、東京入管成田空港支局上陸審査場において、同支局入国審査官に対し、難民認定申請をしたい旨を述べた。

  (ウ) 以上の原告の主張する事実は、アフガニスタンの客観的状況とも一致するほか、多数の客観的証拠及び第三者による供述と細かい部分まで符号しているものであり、その内容も自然かつ合理的なものであり、現実に事実を体験した者の供述のみが持つ迫真性を有しており、その内容にも一貫性が認められるから、原告の供述は高度の信用性を有するものということができる。そして、これらの事実に照らせば、原告が、本件各処分当時アフガニスタンに帰国した場合、人種、宗教及び政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあると信じる相当な理由が認められるから、原告は難民条約上の難民に該当するというべきである。

  (エ) 被告らは、原告の供述には信用性が認められないと主張する。しかしながら、被告らの主張は以下のとおり理由がない。

  a 被告らは、甲第六九号証のサハール紙が偽造されたものであると述べた上、同新聞記事の掲載を前提として作成されたとする甲第七〇号証ないし七四号証も偽造の疑いがあり、この事実は原告の供述全体の信用性に影響を与える旨を主張するが、原告は、同新聞が偽造である旨の指摘をされる以前から、サハール紙のインタビューに際しては、パキスタン情勢やタリバンとパキスタンとの関係を詳細に述べたにもかかわらず、そのインタビュー内容の多くが削除されているとして、記事の内容が不自然である旨を自ら供述していたものである(原告本人五日目七八ないし八五項)。そして、原告は上記各書証は、M・N及びO・Pから受けとったものであると述べており、同新聞については、M・Nによる入手経緯は分からない旨を供述していたことが認められる(同一〇〇項)。そして、原告が各書証を両名から受け取った時期が、アヌワリから危険を知らされてUAEからパキスタンに出国した時期の直後であることからすると、M・N及びO・Pが、原告が他国で速やかに難民として保護を受けられるようにこれらの書類を作成した原告に渡したことも十分に考えられるのであって、これらの書類が仮に偽造であったとしても、その事実が原告の供述の信用性に影響を与えるものではないというべきである。

 また、真に難民に該当する者であったとしても、供述のみでは信用してもらえないのではないかという危惧や、難民であることを速やかに認定してほしいという心情から、虚偽の書類等を提出して難民認定申請をすることは十分考えられるのであって、このような事実が仮にあったとしても、そのことのみから申請者の供述の信ぴょう性すべてを否定するのではなく、申請者が提出した他の書類や出身国情報等のすべてを検討して信ぴょう性判断がされなければならないことはいうまでもなく、原告の場合には、他の資料からみて、原告の供述全体の信ぴょう性に疑いを挟む余地はないものというべきである。

  b 被告らは、原告がタリバンがカブールを制圧した前後のころ、数度にわたり来日している点を捉えて、部隊の司令官の取るべき行動として現実と乖離している旨を主張するが、原告は、貿易事業を行いながらハラカテ・イスラミに経済的支援を行うほか、アフガニスタン北部に入ってハラカテ・イスラミのミーティングに参加する等の活動を行っており、ハラカテ・イスラミの幹部として取るべき行動を取ったものと解されるから、被告らの主張は失当である。

  c 被告らは、原告のハラカテ・イスラミのメンバーとしての活動内容はいずれも軽微なものであり、その期間もわずかなものであるとして、原告は専ら貿易業に従事していたものと主張するが、原告は事業で得た利益でハラカテ・イスラミに経済的支援をしていたものであって、広報やミーティングに参加する等積極的に活動していたのみならず、共産主義政権に二度にわたり身柄を拘束された経験を有するのであり、原告の活動実績が皆無であるとは到底いうことができない。

  d このほかに、被告らは、縷々主張して原告の供述に信ぴょう性がない旨を述べるが、これらはいずれも失当である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第三 争点に関する判断

 

 一 法四九条一項の異議の申出に対する裁決の処分性

 

 (1) 法四九条一項の異議の申出を受けた法務大臣は、同異議の申出に理由があるかどうかを裁決して、その結果を主任審査官に通知しなければならず(法四九条三項)、主任審査官は、法務大臣から異議の申出に理由があるとした旨の通知を受けたときは、直ちに当該容疑者を放免しなければならない一方で(同条四項)、法務大臣から異議の申出に理由がないと裁決した旨の通知を受けたときは、速やかに当該容疑者に対しその旨を知らせるとともに、法五一条の規定による退去強制令書を発付しなければならないこととされている(法四九条五項)。

 

 このように、法は、法務大臣による裁決の結果につき、異議の申出に理由がある場合及び理由がない場合のいずれにおいても、当該容疑者に対してではなく主任審査官に対して通知することとしている上、法務大臣が異議の申出に理由がないと裁決した場合には、法務大臣から通知を受けた主任審査官が当該容疑者に対してその旨を通知すべきこととする一方、法務大臣が異議の申出に理由があると裁決した場合には、当該容疑者に対しその旨の通知をすべきことを規定しておらず、単に主任審査官が当該容疑者を放免すべきことを定めるのみであって、いずれの場合も、法務大臣かその名において異議の申出をした当該容疑者に対し直接応答することは予定していない(なお、平成一三年法務省令七六号による改正後の法施行規則四三条二項は、法四九条五項に規定する主任審査官による容疑者への通知は、別記六一号の二様式による裁決通知書によって行うものとすると定めているが、この規定はあくまで主任審査官が容疑者に対して通知する方式を定めたものにすぎず、法の定め自体に変更がない以上、この規則改正をもって法務大臣が容疑者に直接応答することとなったとは考えらない。)。こうした法の定め方からすれば、法四九条三項の裁決は、その位置づけとしては退去強制手続を担当する行政機関内の内部的決裁行為と解するのが相当であって、行政庁への不服申立てに対する応答行為としての行政事件訴訟法三条三項の「裁決」には当たらないというべきである。

 

 (2) このことは、法の改正の経緯に照らしても明らかである。

 

 

すなわち、法第五章の定める退去強制の手続は、法の題名改正前の出入国管理令(昭和二六年政令三一九号)の制定の際に、

 

そのさらに前身である不法入国者等退去強制手続令(昭和二六年政令第三三号)五条ないし一九条の規定する手続を受け継いだものと考えられ、

 

同手続令においては、入国審査官が発付した退去強制令書について地方審査会に不服申立てをすることができ(九条)、

 

地方審査会の判定にも不服がある場合には中央審査会に不服の申立てをすることができ(一二条)、

 

中央審査会は、不服の申立てに理由があるかどうかを判定して、その結果を出入国管理庁長官(以下「長官」という。)に報告することとされ、

 

報告を受けた長官は、中央審査会の判定を承認するかどうかを速やかに決定し、

 

その結果に基づき、事件の差戻し又は退去強制令書の発付を受けた者の即時放免若しくは退去強制を命じなければならないものとされていた(一四条)もので、

 

この長官の承認が、法四九条三項の裁決に変わったものと考えられる。

 

そして、長官の承認は、中央審査会の報告を受けて行われるものとされていて、

 

退去強制令書の発付を受けた者が長官に対して不服を申し立てることは何ら予定されておらず、

 

長官の承認・不承認は、退去強制手続を担当する側の内部的決裁行為にほかならない。

 

したがって、同制度を受け継いだものと考えられる法四九条三項の裁決についても、退去強制令書の発付を受けた者の異議申出を前提とする点において異なるものの、

 

その者に対する直接の応答行為を予定していない以上、基本的には同様の性格のものと考えるのが自然な解釈ということができる。

 

 

 

 

 

 (3) また、前記の解釈は、法四九条一項が、行政庁に対する不服申立てについての一般的な法令用語である「異議の申立て」を用いずに、

 

「異議の申出」との用語を用いていることからも裏付けられる。

 

すなわち、昭和三七年に訴願法を廃止するとともに行政不服審査法(昭和三七年法第一六〇号)が制定されたが、

 

同法は、行政庁に対する不服申立てを「異議申立て」、「審査請求」及び「再審査請求」の三種類(同法三条一項)に統一し、

 

これに伴い、行政不服審査法の施行に伴う関係法律の整理等に関する法律(昭和三七年法律第一六一号)は、それまで各行政法規が定めていた不服申立てのうち、

 

行政不服審査法によることとなった行政処分に対する不服申立ては廃止するとともに、行政処分以外の行政作用に対する不服申立ては前記三種類以外の名称に改め、そうした名称の一つとして「異議の申出」を用いることとした。

 

 

 他方、法の対象とする外国人の出入国についての処分は行政不服審査の対象からは除外されている(行政不服審査法四条一項一〇号)とはいえ、

 

前記のとおり行政不服審査法の制定に際して個別に不服申立手続について規定する多数の法令についても不服申立てに関する法令用語の統一が図られたのに、

 

法四九条一項に関しては、従前どおり「異議の申出」との用語が用いられたまま改正がされず、

 

法についてはその後も数次にわたって改正がされたにもかかわらず、

 

やはり法四九条一項の「異議の申出」との用語については改正がされなかった。

 

そして、現在においては、法令用語としての「異議の申出」と「異議の申立て」は通常区別して用いられ、

 

「異議の申出」に対しては応答義務さえないか、又は応答義務があっても申立人に保障されているのは形式的要件の不備を理由として不当に申出を排斥されることなく何らかの実体判断を受けることだけである場合に用いられる用語であるのに対し、

 

「異議の申立て」は、内容的にも適法な応答を受ける地位、すなわち手続上の権利ないし法的地位としての申請権ないし申立権を認める場合に用いられる用語として定着しているということができる。

 

 

したがって、数次にわたる改正を経てもなお「異議の申出」の用語が用いられている法四九条一項の異議の申出は、これにより、法務大臣が退去強制手続に関する監督権を発動することを促す途を拓いているものではあるが、

 

同異議の申出自体に対しては、被告の応答義務がないか、

 

又は、応答義務があっても、形式的要件の不備を理由として不当に申出を排斥されることなく何らかの実体判断を受けることが保障されるだけであり、

 

申出人に手続上の権利ないし法的地位としての申請権ないし申立権が認められているものとは解されない(最高裁第一小法廷判決昭和六一年二月一三日民集四〇巻一号一頁は、土地改良法九六条の二第五項及び九条一項に規定する異議の申出につき、同旨の判示をしている。)。

 

 

 

 よって、法四九条一項の異議の申出に対してされる法四九条三項の「裁決」は、不服申立人にそうした手続的権利ないし地位があることを前提とする「審査請求、異議申立てその他の不服申立て」に対する行政庁の裁決、決定その他の行為には該当せず、行政事件訴訟法三条四項の無効等確認の訴え及び同条三項の裁決の取消しの訴えの対象となるということはできない。

 

 

 

 (4) さらに、法四九条一項の異議の申出については、前記のとおり、申出人に対して法の規定により手続上の権利ないし法的地位としての申請権ないし申立権が認められているものと解することはできないのであるから、異議の申出に理由がない旨の裁決がこうした手続上の権利ないし法的地位に変動を生じさせるものということはできず、同裁決が行政事件訴訟法三条二項の「処分」に当たるということもできない(前記(3)の最一小判参照。)。

 

 

 (5) 以上によれば、法四九条一項の異議の申出に対する法務大臣の裁決は内部的決裁行為というべきものであり、行政事件訴訟法三条一項にいう公権力の行使には該当しないというべきものであるから、本件裁決の不存在確認を求める主位的訴え、本件裁決の無効確認ないし取消しを求める予備的訴えは、いずれも不適法な訴えであるといわざるを得ない。

 

 

 二 原告の難民該当性について

 

 

 原告は、本件不認定処分は、原告が難民条約上の難民に該当するにもかかわらず、これを看過してされた処分であるから取り消されるべきであり、本件退令発付処分は、送還先をアフガニスタンとしたことが、難民を迫害のおそれのある国に送還することを禁じた難民条約三三条一項、法五三条三項のノン・ルフールマン原則に違反し無効である旨を主張する。そこで原告の難民該当性について検討する。

 

 

 (1) 歴史的沿革

 

 

 

 《証拠略》によれば、アフガニスタンの歴史的沿革について、以下の事実が認められる。

 

 

 ア アフガニスタンは、イラン系のパシュトゥーン人やタジク人、モンゴロイド系のウズベク人やハザラ人等の民族が混在する多民族国家である。このうち、パシュトゥーン人が最大の民族グループで、人口の約三五パーセントを占め、次に多いのがタジク人で約二五パーセント、ハザラ人は約一九パーセント、ウズベク人は約六パーセントを占める。

 

 

 イ アフガニスタンには、一九七九(昭和五四)年一二月、ソ連軍が侵攻し、ソ連の支援の下で、共産主義のカルマル政権が成立したが、イスラム原理主義を中心とするムジャヒディン(イスラム聖戦士達)がソ連及びカルマル政権に対する抵抗運動を開始し、以後、内戦状態が続いた。

 

 

 ウ 政権は、一九八六(昭和六一)年五月にカルマルからナジブラへと引き継がれ、一九八九(平成元)年二月にはジュネーブ合意に基づき、ソ連軍が撤退し、一九九二(平成四)年四月には、ナジブラ政権は崩壊してムジャヒディン各派による連立政権が誕生したが、各派間での主導権争い等により、国内の内戦は激化した。ムジャヒディン勢力は、タジク人を中心とするイスラム協会、②パシュトゥーン人を中心とするアフガン解放イスラム同盟、③ハザラ人及びシーア派パシユトゥーン人を中心とするイスラム運動党(ハラカテ・イスラミともいう。一九九四年六月からタリバン結成の同一一月頃までの概要では、推定兵力五〇〇〇人、基盤地域は中部、カブール南西部で、特徴は、シーア派勢力であることが上げられている。また、党内主要人物は、アリー・アヌワリであった。)、④ハザラ人を中心とするイスラム統一党、⑤パシュトゥーン人を中心とするイスラム党、⑥ウズベク人を中心とするイスラム国民運動等の連合であった。

 

 

 エ 一九九四(平成六)年末には、イスラム教スンニ派のパシュトゥーン人を中心としたタリバンと呼ばれるイスラム原理主義勢力が台頭し、イスラム原理主義政権の樹立を目指して勢力を拡大し、一九九六(平成八)年九月末には、タリバンが首都カブールを制圧して暫定政権の樹立を宣言した。これ以降、タリバンに反対するハラカテ・イスラミを含むムジャヒディン各派の統一戦線(通称北部同盟)とタリバンとの内戦が続いた。統一戦線は、タリバンによりカブールを追われた政府であるアフガニスタン・イスラム国(旧政府)を支持しており、旧政府の最高指導者であるグルバディン・ラバニが形式上の最高指導者とされていた。

 

 

 オ タリバンは、一九九八(平成一〇)年夏には、マザリシャリフ及びイスラム統一党の拠点であるバーミヤンを陥落させ、二〇〇一(平成一三)年一〇月ころには、国土の九割を掌握し、アフガニスタンを実質的に支配していた。

 

 

 カ アメリカ合衆国におけるいわゆる同時多発テロを契機とした米英軍の空爆と統一戦線による攻撃により、二〇〇一(平成一三)年一二月には、タリバンは統治機能を喪失した。そして、同月二二日には、アフガニスタン暫定政権が発足し、日本は、同政権を承認した。暫定政権は、パシュトゥーン人のハミド・カルザイ元外務次官を首相に相当する議長とする合計三〇人の閣僚で構成され、うち一一人がパシュトゥーン人、八人がタジク人、五人がハザラ人(このうち農相にはハラカテ・イスラミに所属したアヌワリが就任した。)、三人がウズベク人、その他が三人であった。

 

 

 キ 暫定政権成立以後のアフガニスタンについては、パキスタン等の隣国に逃れていた避難民の大量帰国を報じる新聞報道もある一方で、治安の悪化を懸念する報道もされており、さらには、暫定政権の成立に向けた交渉過程で、ラバニ元大統領派のタジク人が政権の要職を占めつつあったことに反発して、ウズベク人の指導者であるドスタム将軍やクルド人の指導者であるイスマイル・カーン司令官が暫定行政機構への参加を一時見送ろうとしたことや、暫定行政機構の中心となっているパシュトゥーン人については、以前にあった部族有力者らの腐敗と権力闘争が再燃するおそれがあること等から、暫定行政機構には全土統一を達成できるだけの軍事力もなく、カリスマもイデオロギーもないとして、タリバンによる政権掌握前の内戦状態に後戻りすることを危惧する報道もされていた。

 

 

 

 (2) アフガニスタンにおけるハザラ人の状況について

 

 

 ア 《証拠略》によれば、アフガニスタンにおけるハザラ人の状況については、以下の事実を認めることができる。

 

 

  (ア) ハザラ人は、アフガニスタンに存在する最も古い移住民族の一つであり、今から二三〇〇年以上前に今日ハザラジャットとして知られる地域に移住し、一八八〇年代までは、完全に自治を確立し、同地域を支配していた。

 

 

  (イ) しかしながら、アブドゥル・ラーマンがアフガニスタンの王位に就いた一八九〇(明治二三)年から一九〇一(同三四)年にかけて、ハザラ人は、宗教上の理由及び民族的理由により、同王による迫害の対象とされ、三度の反乱を起こしたが失敗に終わり、以後一九七〇年代まで社会的経済的差別の対象とされ、厳しい政治的抑圧を受けた。

 

 

  (ウ) 一九八〇年代から一九九〇年代前半にかけて、ハザラ人は、政党を結成し、連合や解散を繰り返してきたが、一九九〇年代に入ると、ヘズベ・ワハダット党とその指導者であるマザリ師を中心として結束した。ハザラ人は、一九九二(平成四)年までにカブールのほとんどの地域に住むようになり、西カブールは、シーア派ハザラ人の居住地域として国内最大のものとなっていた。しかしながら、ナジブラ政権崩壊後、ムジャヒディンにより構成された暫定政権から、ヘズベ・ワハダット党は完全に閉め出され、シーア派ハザラ人は無視された。一九九三(平成五)年二月一一日には、西カブールのアフシャール地区で、数百人のハザラ人が、ラバニ大統領とその主任司令官マスードの命令により虐殺されるという事件が起きた。

 

 

  (エ) その後、ヘズベ・ワハダット党は、一九九五(平成七)年二月、当時勢力を増大していたタリバンと停戦協定を結び、タリバンが西カブールの前線に入ることを許可したものの、タリバンは同党を裏切り、同党の指導者であるマザリ師等を連行した。その後、マザリ師は死体で発見されるに至った。

 

 

  (オ) タリバンは、一九九六(平成八)年にカブールを制圧し、一九九八(平成一〇)年八月八日、マザリシャリフを奪取したが、その際、わずか三日間に数千人(最大八〇〇〇人ともいわれる。)のハザラ人の民間人が殺害された。また、タリバンは、同年九月には、当時ヘズベ・ワハダット党の根拠地であり、ハザラ人のホームランドとして同党に支配されていたバーミヤンを制圧した。これに対し、北部同盟は、一九九九(平成一一)年四月二一日、バーミヤンを奪還したが、翌五月九日には、同市は再びタリバン勢力下に戻った。タリバンによるバーミヤン地方のヤカオラン奪取直後には、多くのハザラ人の一般市民が殺害された。また、タリバンは、二〇〇〇(平成一二)年一二月、同地域において数百人に上る一般市民を即決処刑した。

 

 

 イ 被告らは、アフガニスタンにおけるハザラ人は、タリバン台頭前においては、複雑な対立構造の下に抗争を繰り返しており、常に一方的な被害者であったと認めることはできないと主張し、また、タリバン台頭後については、ハザラ人に対する人権侵害の主要な要因は、宗教的又は民族的特性によるものではなく、むしろタリバンに対立する者であったか、そのように解されたことによるものであるから、本件各処分当時、シーア派ハザラ人が、その民族又は宗教のみを根拠に迫害を受けた事実は認められない旨を主張する。

 

 

 

 ウ そこで検討するに、本件各証拠中には、被告らの主張に沿うものとして、以下の記載があることが認められる。

 

  (ア) 民族に基づく深刻な虐待行為は、反タリバン派も犯してきた。例えば、一九九九(平成一一)年四月二一日から五月九日の三週間に、バーミヤンを制圧しようとした反タリバン勢力は、新しく移ってきたパシュトゥーンの人々や、タリバンの協力者の疑いのある人々を激しく殴ったり、何人もの民間人を恣意的に拘束したり、それら家族にひどい仕打ちをしたといわれる(一九九九年一月付けUNHCR資料四頁)。

 

 

  (イ) タリバンによる処刑は、二〇〇〇(平成一二)年一二月、反タリバン勢力イスラム統一党との激しい戦闘の末、ヤカオランを奪還した直後に行われた。今回の処刑は、この地域を征服する際にタリバンが被った被害に対する報復だと見られている。反タリバンと見られる一三歳から七〇歳までのすべての男性を殺害するようタリバン司令官が命じたと伝えられている。

 イスラム統一党も、この地域を支配していたときにタリバンに協力したと見なされた人々を虐待してきたと報告されている(アムネスティ発表国際ニュース二〇〇一年一月二三日一頁)。

 

 

  (ウ) 一九九七(平成九)年五月末、およそ三〇〇〇人のタリバン兵士の捕虜が、マザリシャリフ周辺で、アブダル・マリク・パラワン司令官指揮下の軍によって略式処刑された。また、同軍は、同年一月五日、空からカブールの住宅街にクラスター爆弾を投下した。通常爆弾も使われたこの無差別空襲により、市民の間に死傷者が数名出た(ヒューマンライトウォッチレポート(二〇〇一年一〇月五日付け))。

 

 

  (エ) 発生した侵害の主要な要因は、宗教への加入又は民族的特性によるとは限らず、むしろ、タリバンに対し、実際に反対者であったか又はそのように解されたことによる。

 一九九八(平成一〇)年八月に、タリバンはマザリシャリフを占拠した。約五〇〇〇人(たいていはハザラ民族の民間人)が占拠後にタリバンにより虐殺されたとの報告があった。タリバンは、一九九七(平成九)年に、ハザラ人及び他の戦闘員が彼らに敵対し、彼らの側の約二〇〇〇人を虐殺したことに対する報復をすることに集中していたとされる(連合王国における「国別評価 アフガニスタン アセスメント二〇〇一年四月」(以下「連合王国アセスメント」という。)訳文一・二頁)。

 

 

  (オ) 宗教的少数派の状況は、地元のタリバン指導者がその権限をどう行使するかによる。一部地域では宗教的少数派も平和に暮らし、自分たちの宗教を奉じることができるが、他の地域では彼らへの嫌がらせや迫害の事件が起こっている。

 国連幹部情報筋や多くの国際・国内NGO等、いくつかの情報筋は、タリバンの少数民族に対する対応は、反対勢力との接触の疑いがあるためで、主に政治的な動機によると強調した。これはつまり、戦闘地域及び衝突の恐れのある地域の少数民族が特に危険であるということである。

 ある中央の国連情報筋は、ハザラ人はその民族のために組織的に迫害されているわけではないが、特に戦闘年齢の男性は、戦闘地域や反対勢力が形作られている地域では、反対勢力とのつながりを疑われている(デンマーク移民サービス局によるアフガニスタンにおける治安及び人権状況検討のためのパキスタン視察団報告(二〇〇一年一月一八日から二九日、以下「デンマーク報告書」という。))。

 

 

  (カ) 上記(ア)ないし(オ)の各記載からは、ハザラ人を中心とするイスラム統一党等は、タリバンに協力したとみなされた者に暴行等の虐待を加えたことがあり、タリバンにより一九九八(平成一〇)年八月に行われたマザリシャリフの大虐殺や、一九九九(平成一一)年に行われたバーミヤンにおける虐殺は、これらの反タリバン勢力による虐殺行為に対する報復として、反タリバン勢力に対する協力者、あるいは反タリバンとみなされた者を対象としてされた側面のあることが認められ、タリバンは、ハザラ人を含む少数民族に対し、主に戦闘地域において反対勢力との接触の疑いのある場合に殺害や連行等の迫害を行ったことが認められる。

 エ 他方で、被告がその主張の根拠として引用する連合王国アセスメントやデンマーク報告書には、以下のような記載があることが認められる。

 

 

  (ア) まず、連合王国アセスメントには、以下の記載がある。

 

 継続した紛争等による人権侵害の状況下では、アフガニスタンで、誰が危険で、誰がそうでないかについて明確に区別する法則はない。しかしながら、人権侵害の主要な標的の中には、以下のような者が含まれているといえる。タリバンと関係しない非パシュトゥーン民族のメンバー、宗教的マイナリティーグループ等(訳文「5.3.1特定のグループ」の項)。

 

 

 

  (イ) また、デンマーク報告書にも、以下のような記載がある。

 

 

  a 「宗教的及び民族的少数者に対する状況について」と題する箇所

 

 中央の国連情報筋、アフガニスタン協働センター(CCA)、多くのNGO等いくつかの情報筋は、全体としてアフガニスタン少数民族の政治的迫害や追放は一般的ではなかったが、それは彼らがどこに住んでいるかによると述べた。しかし、戦闘地域又は衝突の恐れのある地域の少数民族は極めて危険である。この情報筋は、衝突のある地域数は、一九九七(平成九)年以来増加しており、ハザラジャットとアフガニスタン西部での政治的不安定を伴っていると述べた。

 

 ある国連幹部情報筋は、戦闘が行われている地域、特に北部及びハザラジャットの少数民族の状況は、現在非常に悪いため、彼らを非常に特別な危険状態にあると見なされなければならないと報告した。ハザラ人は特に迫害を受けやすいグループで、一九九八(平成一〇)年以来そうである。

 

 国連幹部情報筋や多くの国際・国内NGO等は、タリバンと非パシュトゥーン人少数民族の間で民族分化が行われていると説明した。ある情報筋は、ハザラ人の「二重の少数派」であるために苦しんでいると付け加えた。ハザラ人は、その民族のためにハザラ人をベースとする反対勢力ワーダット党への加盟を疑われ、イスラム教シーア派を信仰しているためにも攻撃を受けるからである。

 

 すべての情報筋は、少数民族への攻撃は組織的ではなく、恣意的なものだと述べた。CCAは、一九九七(平成九)年にカンダハルの刑務所を、また一九九八(平成一〇)年末にバグラン州ナハリン地区の刑務所を訪れることができたが、タリバンが「政治犯」とする多くの拘留者が、実際には少数グループの普通の労働者または農民で、街で捕らえられたものだと報告した。

 

 

  b 「紛争の宗教的様相の拡大」と題する箇所

 

 これまで述べたように、いくつかの情報筋は、タリバンの少数民族への対応は、反対勢力とのつながりの疑いによる主に政治的動機によるものだと確信していた。

 しかし、国連幹部情報筋や、CCA、アフガニスタン救済団体調整局(ACBAR)等の多くの情報筋は、最近数年、宗教的要素が戦争に加わってきたと述べた。これは、タリバンが多くの外国人イスラム教スンニ派原理主義者を自軍に組み込み、彼らが非スンニ派を殺害することを自分たちの宗教的使命と見なしているからである。同様に最近、戦闘の実施に関して、強い反シーア派的声明が発されている。

 

  c 「民族的少数者に対する状況」のうちハザラ人に関する箇所

 

 ある中央の国連情報筋は、ハザラ人はその民族のために組織的に迫害されているわけではないが、特に戦闘年齢の男性は、戦闘地域や反対勢力が形作られている地域では、反対勢力とのつながりを疑われていると報告した。タリバンが脅威を感じると、彼らはハザラ人に恣意的な逮捕等を押しつけて反応し、少数ながら処刑も行われた。この情報筋は、ハザラ人を基盤とするワーダット党とのつながりを疑われるという理由で、その疑いの客観的根拠もなく暴力が行われる場合もあると述べた。

 CCAは、タリバンは脅威を感じると、カブールとマザリシャリフでいつもハザラ人とウズベク人を逮捕すると報告した(訳文一九頁)。

 

  d 「宗教的少数者に対する状況」と題する箇所

 

 ある中央の国連情報筋は、反対勢力とのつながりを疑われることが少数民族への迫害の主な理由だが、これは宗教的な迫害の点でも連鎖反応を招くと指摘した。例えば、シーア派教徒は、反対勢力に属していると疑われることがあるという(訳文二二頁)。

 

  (ウ) 以上の被告らがその主張の根拠とする資料中、被告らが引用していない部分の記載からは、タリバンによるハザラ人に対する暴行や殺害等の迫害は、必ずしも組織的に行われたものではないとしても、現実には、ハザラ人がその民族及び宗教的信仰のゆえに、タリバンから反対勢力に属することを疑われ、その疑いの客観的証拠がなくとも暴行や殺害等を受けることが相当の頻度であったことや、少なくとも一部のタリバン勢力が、非スンニ派を殺害することを宗教的使命とみなしていたことが認められる。

 

 オ さらに、本件各証拠には、以下のような記載もある。

 

  (ア) アムネスティ・インターナショナルによれば、多数の非戦闘員が、タリバンの警備兵によって、故意にかつ恣意的に殺害されている。一九九八(平成一〇)年九月、アムネスティ・インターナショナルは、同年八月八日のマザリシャリフの奪取において、タリバンの軍隊が街中及び市場で一般市民が逃げようとすると無差別に発砲したことを報告した。タリバンは、その後直ちに各家の捜索を行い、タジク人、ウズベク人及びハザラ人の男性と一〇代の少年を拘禁し、街中又は家で度々ハザラ人を射殺した。

 

 上記マザリシャリフの奪取について、アフガニスタンにおける国連人権特別報告官は、タリバンが、主にシーア派ハザラ人を標的とした殺人的狂乱の中で、広範かつ無差別な発砲を行ったと報告している。(中略)タリバンは、路上で動く者を見ると、自分の家の窓やドアから覗いていただけかもしれない人も含め、誰であっても発砲した。

 

 住民の中で攻撃と迫害を受ける特別の可能性があった、又は可能性がある集団としては、彼らに敵対的な軍事的指導者に支配された地域にいる特定の民族的、宗教的又は政治的集団が含まれ、政治的又は民族的に対立した集団に属している、あるいは属していると疑われた武装していない一般市民は、人権侵害の標的となっている旨の記載がある(UNHCR資料・訳文五頁、同一一頁)。

 

 

  (イ) 何千人ものハザラ人系住民が、一九九八(平成一〇)年にタリバンにより殺害されたと推定されている。また、民族的な理由による市民の強制追放も行われた形跡がある。一九九九(平成一一)年中、新たにタリバンの支配下に入った地域から、ハザラ系やタジク系の住民が強制的に追放されたとする複数の報告がされている。そして、ハザラ系住民は、パシュトゥーン系であるタリバンによる民族的出自を理由とした攻撃の対象となっていると伝えられている(アメリカ合衆国国防省による二〇〇〇年二月二五日公表の一九九九年国別人権状況報告書・訳文二〇頁、同三一頁)。

 

  (ウ) タリバンが一九九八(平成一〇)年八月にマザリシャリフを軍事的に制圧してから数日間、数千人のハザラの民間人がタリバン警備兵に意図的かつ組織的に殺害されたという報告が相次いだ(アムネスティ・インターナショナルの「アフガニスタン:マイノリティの人権」と題する資料)。

 

  (エ) 一九九九(平成一一)年五月にタリバンが前回ヤカオランを奪取した際に多くのハザラ民族の一般市民が、侵入してきたタリバン警備隊の組織的殺害の標的とされたと報告されている(アムネスティ発表国際ニュース(二〇〇一年一月二三日))。

 

  (オ) タリバンは、一九九八(平成一〇)年八月のマザリシャリフ制圧及び同年九月のバーミヤン制圧に際し、ハザラ人を虐殺したと伝えられているが、一つの動機は、一九九七(平成九)年五月にマザリシャリフを制圧しようとした際にタリバン側に死傷者が出たことに対する報復であったが、もう一つの動機は、シーア派ムスリムのハザラ人に対する宗派的憎悪であったと思われる。

 

 デンマーク移民局は、一九九七(平成九)年一一月にアフガニスタンを訪問し、タリバン支配領土でも問題なくハザラ人が生きていけると報道担当者は述べているが、幅広い国連の情報筋やアフガニスタン内外のNGOはすべてハザラ人が迫害を受けやすい人々であるとの見解を示したと報告した。(中略)情報源によれば、ハザラ人が、イスラム統一党に属しているという容疑、軍への徴発、捕虜とされているタリバン側の者との交換用として収容されているとのことである。一日に二〇人から五〇人のハザラ人がカブールで拘束されているとの報告がある(オーストラリア難民再審査審判書の決定・訳文六頁)。

 

 カ 以上の各証拠中の記載を総合的に考慮すると、被告らの主張するように、タリバンによって行われたハザラ人の虐殺行為には、反タリバン勢力の攻撃に対する報復という側面があったため、反タリバン勢力に属する者あるいはそのように疑われた者は、とりわけタリバンによる迫害の対象となり、生命ないし身体の安全を著しく脅かされる状況にあったことが優に認められる。

 

 

また、それにとどまらず、タリバンは公式には組織的かつ日常的にハザラ人を迫害することを肯定していたものではないものの、実際には、少なくともアフガニスタンの一定の地域(例えば、戦闘地域であったマザリシャリフやバーミヤンのほか、元々ハザラ人が多数居住している地域等)において、その地に臨んだタリバン兵から、ハザラ人が、ハザラ人であること、あるいはシーア派であることのために、客観的な理由なく反タリバン勢力に属するものと見なされて積極的暴行を受けたり、あるいは宗教的憎悪の対象とされて、迫害を受けることが頻繁にあったことも認めることができる。

 

 

 なお、被告らは、タリバンによるハザラ人に対する暴行等がより限定的なものにすぎなかった旨主張し、二〇〇一(平成一三)年六月に入国審査官がカブール市内においてハザラ人が何ら迫害を受けずに生活している状況を現認した旨の報告書を証拠として提出している。

 

しかし、上記認定は、タリバンが公式に組織的かつ日常的にハザラ人に対して迫害を行うことを肯定しているというものではなく、

 

むしろ、タリバンも公式にはそのようなことは否定しているものの、

 

タリバンの支配が十分に浸透していない地域においては、

 

現地に臨んだタリバン兵が恣意的に上記のような行動に出ることが一般化しているというものであるから、

 

カブールの中心街に近く、タリバンが確実に制圧している地域における白昼の状況に関する上記報告書の記載は、上記の認定を左右するものではない。

 

 

 

 キ 以上によると、

 

本件各処分がされた当時、タリバン政権により、シーア派ハザラ人は、その宗教及び人種ゆえに憎悪の対象となる可能性があったものと認められるし、

 

このような可能性の高低は、その居住地域などにより異なると解されるものの、

 

中でも反タリバン活動を積極的にしていた者や、そのことをタリバンに把握されていた者については、その居住地域にかかわらず、通常のシーア派ハサラ人以上にタリバンにより迫害を受ける極めて切迫した危険性に直面していたものと優に認めることができる。

 

 

 

 (3) 原告の供述の内容及びその信ぴょう性

 

 ア 原告は、原告本人尋問、原告代理人作成の陳述書において、シーア派ハザラ人であること、ハラカテ・イスラミの司令官としてタリバンに反対する活動をしたためにタリバンから指名手配を受けたこと等を供述しており、その要旨は、以下のとおりである。

 

 

  (ア) 原告は、アフガニスタン国籍の父Q・R、母S・Tの子供であり、五人兄弟の三男として、一九六四(昭和三九)年一二月二五日にアフガニスタンのパルワン、スルフ・パールサ、トルクマン、アリハニで出生した。また、原告には妻U・Vとの間に三男五女の八人の子供がおり、原告は現在も妻子と連絡を取っているが、妻子の生命・身体に危険が及ぶ可能性があるとして、その居住場所を明らかにしていない。

 原告は、イスラム教シーア派に属するハザラ人であり、ダリ語を母国語としている。

 

 

  (イ) 原告の父は、原告が二歳のころ病死したが、原告が三、四歳のころ、原告ら家族は長兄の仕事や学校の関係から、アリハニからカブールに転居した。原告は、カブールにあるジャマール・ミナ小学校・中学校を卒業し、アンサーリ高校に進学した後、一九八一(昭和五六)年ころ、同高校を中退した。

 

 

  (ウ) 原告の長兄であるG・Hは、中古自動車部品の貿易・販売事業で生計を立てていたが、一九八〇(昭和五五)年ころから、ハラカテ・イスラミのメンバーとして活動するようになった。原告も一九七九(昭和五四)年にソ連がアフガニスタンに侵攻していたこと、ハザラ人やイスラム教シーア派が迫害を受けていたことから、アフガニスタンの民主化のためハラカテ・イスラミのメンバーとなる決意をし、一九八一(昭和五六)年ころからハラカテ・イスラミのメンバーとして活動するようになると、カブール担当の第五情報部門の責任者に任命され、情報収集などを行うようになった。

 他方で原告は、一九八一(昭和五六)年ころ、アフガニスタンの事業許可を取得し、中古自動車部品の貿易・販売事業で生計を立てるようになった。

 

 

  (エ) 原告は、一九八二(昭和五七)年ころ、当時のカルマル政権により(ウ)の活動を理由として、西カブールの店舗にいたところを逮捕され、一か月以上身柄を拘束されたが、ハザラ人の一〇〇人以上の長老らが保証人となり、当時のカルマル政権で副首相を務めていたハザラ人のスルタン・アリ・キシュトマンに釈放を求めたために釈放された。

 

 

  (オ) 原告は、事業で得た利益でハラカテ・イスラミを経済的に支援したり、同党の広報に携わる等の政治活動をしていたが、ハラカテ・イスラミの最高司令官であるサイード・フセイン・アヌワリ(以下「アヌワリ」という。)からの依頼を受け、カブールに潜入していたBBCのイギリス人ジャーナリストからインタビューを受け、現地を案内する等したため、一九八九(平成元)年ころ、当時のナジブラ政権により再び逮捕された。

 原告は、このとき裁判で二年間の懲役を命じられたが、六か月間拘束された後、ナジブラ政権とムジャヒディンが一時的に和平合意をしたために、恩赦により釈放された。原告は、上記身柄拘束の際、金属製ケーブルで身体を殴られたり、電気ショックを受けさせられ、熱した棒を左腕に押しつけられる等の拷問を受けた。

 

 

  (カ) 原告は、(オ)の身柄拘束後もハラカテ・イスラミのメンバーとしてハラカテ・イスラミに経済的支援をしたほか、重要なミーティング等に参加するようになった。その間、原告は一九八二(昭和五七)年ころから一九九一(平成三)年ころまで西ドイツを一年に一度ないし数度の割合で訪問して貿易を行うほか、西ドイツに滞在していたアフガニスタン人と会議を行っていた。

 

 

 また、原告は、アヌワリ等の司令官からの依頼を受けて、西ドイツに滞在するアフガニスタン人への連絡や、西ドイツ政府へハラカテ・イスラミの支援依頼をする等、当時の共産主義政権に批判的な活動をしたほか、西ドイツのテレビや新聞等からのインタビューに応じた。

 

 

 この間に、原告は西カブールの店舗で中古自動車部品の販売もしたが、一九九二(平成四)年にムジャヒディン間の内戦が開始し、パシュトゥーン人のムジャヒディン勢力により商品が強奪されたほか、店舗が破壊された。また原告は、一九九〇(平成二)年ころ、中央カブールに衣類や日用品等を販売する店舗を他のアフガニスタン人と共同で購入して利益を二人で分配していたほか、長兄が有していた中央カブール他の店舗からも賃料を取得する等して、一九九二(平成四)年まで、これらの事業により生計を立て、利益をハラカテ・イスラミへの経済的支援等にも充てていた。

 

 

  (キ) 一九九二(平成四)年三月ないし四月ころ、ハラカテ・イスラミを含むムジャヒディンは、カブールを制圧し、ナジブラ政権を崩壊させたが、その後ムジャヒディン間で内戦が始まった。当時ハラカテ・イスラミの副最高司令官の地位にあった原告の長兄G・Hは、西カブールでスカッド・ミサイルの防衛を担当する司令官をしていたが、この内戦によりパシュトゥーン人のムジャヒディン勢力と思われる者により殺害された。原告は、同人の弟であったため、他のハラカテ・イスラミのメンバーから信頼を受け、一九九二(平成四)年五月ころ、長兄を継いで西カブールでスカッド・ミサイルの防衛を担当する第三四部隊の司令官になり、六五〇人から八〇〇人くらいの部下を率いて活動を行うようになるとともに、ハラカテ・イスラミの中央委員会のメンバーに任命され、ヘクマティアルらのパシュトゥーン人のムジャヒディン勢力と戦ったところ、これらの活動が評価されアヌワリから感謝状を受けた。

 

 

 また、原告は、一九九三(平成五)年八月、ムジャヒディン間の内戦が一時的に停止した時期にアヌワリとともに停戦維持に関する任務に従事し、代表団の安全確保を行うなどしたところ、一九九四(平成六)年一月には、アフガニスタン・イスラム国の第九九〇部隊の司令官に任命された。

 

 

  (ク) 一九九四(平成六)年には、アフガニスタン南部で誕生したタリバンが、次第にカブールに勢力を伸ばし、翌年にはカブールを攻撃するようになったが、原告は、一九九五(平成七)年一〇月、ハラカテ・イスラミの軍事部門の情報管理・規律維持の責任者に任命された。

 

 原告は、一九九二(平成四)年ころまで、貿易等の事業をしていたが、同年に西カブールでスカッド・ミサイルの防衛を担当する司令官に任命された後は、自ら貿易をすることは困難となり、一九九四(平成六)年ころから、中央カブールの店舗を他のアフガニスタン人に賃貸して賃料を得るようになった。

 

 

  (ケ) 原告は、一九九五(平成七)年六月ころ、胃の病気治療のため、アフガニスタンから新たにパスポートを取得してインドを訪問した後、再びカブールへ戻り、ハラカテ・イスラミの中央委員会のメンバーとしてミーティングに参加する等の活動を行い、タリバンと戦った。

 

 

  (コ) 一九九六(平成八)年ころには、イスラム統一党の指導者であるマザリがタリバンに殺害されたことを契機として、イスラム協会、イスラム統一党、ハラカテ・イスラミの反タリバン連合部隊が形成され、原告は同年五月、カブールで、各組織の衝突の防止及び治安維持のための部隊の司令官に任命され、六〇〇名の部下を率いて活動した。

 しかし、一九九六(平成八)年九月二七日、タリバンがカブールを制圧したため、原告は北カブール、トルクマンへと戦闘をしながら退避することになり、約三か月間戦闘を続けた後、自分や家族の命を守るためにアフガニスタンを出国することを決意した。

 

 

  (サ) 原告は、一九九六(平成八)年一二月ないし翌年一月ころ、パシュトゥーン人に五〇〇万アフガニを支払い、パキスタンのペシャワールへ逃走した。原告は身元を隠すため、パシュトゥーン人の服装をし、頭に布を巻いて原告と分からないようにしたほか、身元が判明する書類は所持しないようにしたが、原告の妻子も原告とは別行動でカブールからペシャワールへ移り、妻が原告の書類やパスポートを運び原告に渡した。

 原告は、ペシャワールに到着した後、生計を立てるために他のアフガニスタン人二人と共同で貿易事業を行うことにし、一九九七(平成九)年二月ころ、日本の会社を紹介されて来日した。原告の妻子は、その後カブールに帰り妻の実家で暮らすこととなった。

 

 

  (シ) 原告は、日本からパキスタンに帰国後、UAEに滞在することにし、一九九七(平成九)年七月ころ、他の二人のアフガニスタン人とUAEのシャルジャに貿易事業の会社を設立したが、その後アヌワリからアフガニスタン国内のハラカテ・イスラミメンバーに経済的支援をする任務を与えられ、UAEにおける責任者として活動するようになり、UAE国内に滞在するハラカテ・イスラミのメンバーや支援者らへの連絡、会議等を開催してアフガニスタンの状況を話したりするほか、イランやパキスタンに滞在するメンバーと連絡を取っていた。

 

  (ス) 原告は、一九九七(平成九)年八月から翌年七月までの間、五回にわたりいずれも短期滞在の在留資格を取得して来日し、中古自動車部品の貿易事業に従事した。

 

 原告は、一九九八(平成一〇)年春ころ、ハラカテ・イスラミのミーティングに参加するためタジキスタンを経由し、アフガニスタン北部のタハールに入り、約一週間滞在したが、その際アフガニスタンのパスポートの期限を延長した。

 

 一九九九(平成一一)年はじめには、アヌワリからの指示でペシャワールでハワラという制度を利用してカブールに送金することになり、ペシャワール、トルハンを経由してカブールに入り、約一〇日間滞在して同党の経済的支援をした。

 

 二〇〇〇(平成一二)年初めには、アフガニスタン北部のジャバルサラジで開催された北部同盟の会議に参加するため、原告はペシャワールからジャバルサラジに入り、数日間滞在した後、カブールで地下活動を行うハラカテ・イスラミのメンバーを支援するため、危険を冒してタリバン支配下のカブールに一週間滞在したところ、原告のこのような活動が評価され、原告は二〇〇〇(平成一二)年三月ころ、ハラカテ・イスラミの中央委員会のメンバーに再度登録された。

 

  (セ) 二〇〇一(平成一三)年三月ころ、当時アメリカを訪問していたアヌワリが、イランのマシャドに滞在することになり、ハラカテ・イスラミの中央委員会のメンバーによる会議が開催されたため、原告も参加した。その際、原告はハラカテ・イスラミの週刊誌であるマルドゥムのインタビューに応じ、原告はタリバンに反対する旨を述べたところ、原告のこのインタビューを掲載した同週刊誌は、二〇〇一(平成一三)年五月一四日に発行された。

 

 また、原告は、二〇〇一(平成一三)年五月ころ、伯母が死亡したことから、葬儀のためにペシャワールの親戚を訪ねた。その際ペシャワールの日刊紙であるサハールの記者のインタビューに応じたが、その中で原告は、タリバンに反対する旨を述べた。

 

  (ソ) 原告は、上記のような反タリバン活動をしていたため、タリバンの諜報機関に個別に把握されることとなり、原告がUAEに滞在していた二〇〇一(平成一三)年六月中旬ころには、カブールに居住していた妻の親戚であるI・Jから、原告の従兄弟であるK・Lが連行されたと聞いたほか、同月一九日、アヌワリから、タリバンが原告の指名手配書をパキスタン大使館、UAE大使館に送付しており、原告に身柄拘束の危険が迫っている旨の連絡を受けた。さらに翌二〇日には、UAEに駐在するタリバンの大使館から、原告の会社に対し、原告にアブダビの大使館に来るようにとの電話があった。原告は、これらの連絡を受け、自らの身柄拘束の危険が迫っていると感じ、同月二三日ころ、UAEからパキスタンのペシャワールへと出国した。

 

  (タ) 一方、原告がペシャワールに入ったころ、原告は、パキスタンに滞在する親戚から、タリバンが伯母の葬儀を行った親戚の自宅を二度訪れ、原告の所在場所を尋ねたことを聞かされた。タリバンの一度目の訪問は、原告の友人を名乗る一人ないし二人の者により行われたが、二度目は、武装した一〇人以上の者が訪ねてきたということであった。また、ハラカテ・イスラミの情報部門に所属するO・Pは、ペシャワールを訪れていたが、原告の従兄弟であるK・Lが連行された旨を原告に伝えた。

 

さらに、原告が中央カブールに有していた店舗及び原告のカルテセの自宅は、タリバンに没収されて他人に売却されたほか、原告のホシャルハンの自宅は、タリバンにより破壊され敷地内に地雷が埋められた旨を聞いた。原告は、妻の兄であるM・N及びO・Pから、原告が指名手配された旨が記載されているタリバンの指名手配書(甲七四)や、シャリアット・デイリー紙(甲七〇)、原告のインタビューの掲載されたサハール紙(甲六九)を受け取った。

 

  (チ) 原告は、パキスタンにおいても夕リバンの捜索を受けるようになったため、安全な国へ出国することを決意し、当時ペシャワールに滞在していた元イスラム協会のメンバーであるW・Xに対し、パキスタンからの出国を依頼した。原告は、過去に日本滞在の経験があり、日本語や日本人の性格を多少知っていたことから、日本へ行くことを希望し、一万五〇〇米ドルと三枚の写真を渡し、W・Xは、原告のブローカーを探し、原告は、二〇〇一(平成一三)年六月二八日、ブローカーとともにペシャワールからイスラマバードへ行き、イスラマバードから経由地の空港に空路で移動した後、バンコクと思われる空港をさらに経由し、同年七月二日、成田空港に到着し、同日、東京入管成田空港支局上陸審査場において、同支局入国審査官に対し、難民認定申請をしたい旨を述べた。

 

 

 

 

 イ 原告の供述の信ぴょう性

 

  (ア) 客観的事実との符合の有無

 

 

  a 原告の身上関係に関する原告の供述以外の証拠としては、原告の旅券の写し及び身分証明書の写しがあるところ、これらの記載と原告の供述する氏名、生年月日、出生地、民族の記載は、いずれも一致している。なお、原告の入国記録カード及び査証申請書の中には、原告の出生年について一九五四年と記載されたものがあるが、この点について原告は、原告の旅券が発給された当時、誤って出生年が一九五四年と記載されたため、一九九八年に正しい出生年である一九六四年に訂正する手続を取ったこと、それにもかかわらず、査証申請の際に日本の大使館に送付された保証書の出生年の記載が依然として一九五四年と記載されていたため、同保証書の記載と齟齬のないようにするために出国記録カードに一九六四年と記載した旨を述べている(原告本人三日目一五ないし三三項)。原告の旅券の写しの記載が不鮮明であることからは、出生年が一九六四年に訂正されたか否か及び同訂正の時期は必ずしも明らかでないものの、同旅券の写しの出生年「一九五四年」の記載部分にかけてスタンプが押されていることからすれば、同部分について何らかの記載の訂正がされたものとうかがわれるし、その記載が不鮮明であることは、むしろ原告の上記供述に沿うものということができるから、原告のこの部分の供述には特段不自然な点は見当たらないものというべきである。

 

  b 原告の本邦への今回入国前までの六回の出入国歴について検討すると、原告は、それぞれの時期及び滞在期間の詳細について必ずしも述べていないが、被告らが把握している原告に関する出入国歴と矛盾するものではないということができる。

 

  c 次に、原告の供述は、アフガニスタンの歴史的事実とも一致する。

 

 すなわち、原告が、一九七九(昭和五四)年ころから、ソ連がアフガニスタンに侵攻しており、ハザラ人やシーア派が迫害を受けていたことから、アフガニスタンの平和と自由、民主主義を目指して自らハラカテ・イスラミのメンバーとなることを決意し、一九八一(昭和五六)年ころから、ハラカテ・イスラミのメンバーとして活動するようになったこと、これらの活動を理由として、一九八二(昭和五七)年ころ、当時のカルマル政権により逮捕され身柄拘束を受けたこと、一九八九(平成元)年ころ、ナジブラ政権により再び逮捕されたことは、一九七九(昭和五四)年一二月にソ連が侵攻して共産主義のカルマル政権が成立し、一九八六(昭和六一)年五月に、ナジブラ政権に引き継がれたものの、ハラカテ・イスラミを含むムジャヒディン勢力がこれらに対し抵抗していたとの事実(前記(1)イ及びウ)と合致する。

 

 また、一九九三(平成五)年八月ころ、原告がムジャヒディン間の内戦が一時的に停戦した時期に、ハラカテ・イスラミの停戦の維持に関する任務に従事していたこと、タリバンがカブールを攻撃するようになったことから、一九九五(平成七)年一〇月ころ、ハラカテ・イスラミの軍事部門の情報管理・規律維持の責任者に任命されたこと、一九九六(平成八)年九月ころ、タリバンがカブールを制圧したため、原告は戦闘しながらトルクマンへ退避したこと、原告がUAEに滞在するようになった後、ハラカテ・イスラミ又は北部同盟のミーティングに参加するため、アフガニスタン北部のタハール又はジャバルサラジへ行ったことは、カブールに侵入したタリバンが、一九九六(平成八)年九月末にカブールを制圧して暫定政権樹立を宣言したが(前記(1)エ)、北部同盟の激しい抵抗に遭い、アフガニスタン北部への侵攻は失敗に終わったこと及び二〇〇一(平成一三)年一月になると、タリバンがアフガニスタンの九〇ないし九五パーセントを支配し、北部同盟はタハール州の五〇パーセントや、パルワン州の一部等を支配していたこと等の歴史的事実と一致する。

 

  d さらに、原告の前記各供述は、以下のような証拠により裏付けられるものである(なお、被告らは、原告の提出する甲号証のうち、甲第五三、五七、五八、五九、六一、六三ないし六五、六九、七〇、七四号証について、偽造によるものであるか、あるいは偽造である疑いを払拭できない旨を述べて成立を争う旨を明らかにしており、《証拠略》については、成立を争う書証としては掲記していないものの(本件第六回口頭弁論期日において陳述された被告ら準備書面(9)及び同第七回期日において陳述された被告ら準備書面(10))、その主張全体からみるとこれを争う趣旨と解することができるので(同被告ら準備書面(10)及び本件第九回口頭弁論期日において陳述された被告ら準備書面(12)参照)、以下では、まず成立について争いのない証拠により裏付けられる事実を認定し、後に成立に争いのある書証の作成の真正について検討する。)。

 

  (a) 原告が一九九二(平成四)年にナジブラ政権が崩壊するまでの間、ハラカテ・イスラミのメンバーであったこと及びハラカテ・イスラミの活動を理由として二年間の懲役に処する旨の判決を受けたことについては、《証拠略》のハラカテ・イスラミのメンバーズ・カードの記載(発行年月日が一九八二年五月二五日、カブールを発行地として、原告及び原告の父の氏名等が記載されている。)及び《証拠略》の判決通知書の記載(一九八九年九月一二日付けで、アフガニスタンの裁判所が、原告について、ハラカテ・イスラミのメンバーとして国内外の治安の不安定をもたらしたとして、反乱の罪により二年間の懲役に処する旨の判決をしたことを通知する記載がある。)により裏付けられる。また、原告が二度の身柄拘束中に熱い鉄棒を押しつけられたり、金属製のケーブルで殴打され、あるいは熱湯で火傷をさせられる等の暴行を受けたとする点については、原告の左膝付近、左上腕に、白色様の線状の傷跡が認められることと一致する(原告本人一日目三七ないし四二項)。

 

  (b) 原告が一九九二(平成四)年六月に長兄を継いでスカッドミサイルの防衛を担当する司令官に任命されたことについては、一九九三年ころ、カブールのダルラマン基地でスカッドミサイルの取材を申込み、司令官として原告を紹介され、原告の協力を得て取材を行ったとするフリージャーナリストの佐藤和孝の供述により裏付けられる。

 

 また、原告が一九九三年八月ころ、ムジャヒディン間の内戦の一時停止に伴い、停戦維持に関する任務に従事したという点については、同年八月五日付けで政治部門責任者サイード・ムハマッド・ハディにより作成されたハラカテ・イスラミの任命書(甲六〇)に、「本書面により、貴殿に対し、公式に停戦に関する代表団の安全を確保する任務を付与します。」との記載が認められることにより裏付けられる。さらに、同書証の名宛人として「A・B、トルクマン、スカッド・ミサイル担当司令官殿」と記載されていることからは、当時原告がスカッド・ミサイルの防衛担当の司令官に任命されていたことが認められるから、原告の一九九二(平成四)年五月ないし六月ころ、スカッド・ミサイルの防衛担当の司令官に任命されたと供述する事実についても裏付けられる。

 

 

  (c) 原告が一九九六(平成八)年五月ころ、カブールで、反タリバン連合部隊の衝突の防止及び治安維持のための部隊の司令官に任命され、同九月末ころから、タリバンと戦闘を継続しながら北カブール、トルクマンへと退避したこと、原告がハラカテ・イスラミのミーティングに参加する等ハラカテ・イスラミの司令官として活動していたことは、当時原告と共にハラカテ・イスラミの中央委員会(なお、甲第八〇号証では「評議会」と記載されているが、同義であると解される。)のメンバーを務め、その後アフガニスタン暫定行政機構計画省国際局長を務めたサデク・ムダベルが、同会で原告と会っており、原告がアヌワリと活動していた旨を述べていること及び当時の原告の様子を撮影した写真撮影報告書の写真の中に、原告が迷彩服を着用して戦車上に座ったり、山岳部を銃等の武器を携えて歩いている様子、原告を含む多数の人がミーティングのために集合している様子、原告がアヌワリと一緒にいる様子等を撮影した写真が含まれていることからも裏付けられる。

 

 なお、被告らは、同報告書の各写真のうち、戦闘の際の様子を撮影したものは緊迫感に欠ける旨等を主張するが、各写真に被告らの主張するような不自然な点は特段見受けられないし、かえって前記佐藤は、ムジャヒディンが迷彩服を着用するようになったのはカブールでタリバンと戦闘をした時期のころからであるとの具体的根拠を示した上、これらの写真は原告がハラカテ・イスラミのメンバーとして活動した状況を撮影したものと考えられる旨を述べているから、各写真は当時の戦闘の際の様子を撮影したものと認められる。以上のほかに、ハラカテ・イスラミの中央委員会のメンバーであるアハマディ、サイド・アリム・ラサ及びファゼル・ナビ・ハイダリが、いずれも原告についてハラカテ・イスラミの党員である旨を述べていることも、原告の主張を裏付けるものである。

 

 

  (d) また、二〇〇一(平成一三)年三月二三日付けで、アヌワリが「A・B―ハラカテ・イスラミ代表」を名宛人として、「貴殿は、困難な時期において外国に滞在する立場にありながら、アフガニスタン国内の人々に精神的・経済的に支援をいただき、大変感謝しております。」と記載された感謝状を交付していることからは、原告が、当時アフガニスタン国内のハラカテ・イスラミのメンバーに経済的支援をしていた事実が裏付けられる。さらに、同年ころに作成されたとされる甲第六七号証に、ハラカテ・イスラミの計画部門長官サイード・ムハマッド・ハディ(前記甲第六〇号証の作成者と同一人物と解される。)が、「感謝状」と題して、「司令官A・B―トルクマン殿」を名宛人として、ハラカテ・イスラミの軍事部門、スカッド・ミサイル部門における活動を称える感謝状を交付しており、同感謝状の記載からは、原告が、一四年間にわたりハラカテ・イスラミの軍事部門に所属していたこと、カブール、スカッド・ミサイル部門、パルワン、サンラック、シャマリにおいてハラカテ・イスラミの活動に従事し、その活動が同党により高く評価されていたことが認められる。

 

 

  (e) さらに、ハラカテ・イスラミの機関誌であるマルドゥム(二〇〇一(平成一三)年五月一四日付け)には、原告について「司令官」との肩書きを付した上で、原告は、以前は共産主義政権に反対する活動を行い、数年間にわたり、カブールにある刑務所で過ごした経験があること、共産主義政権が崩壊した後はスカッド・ミサイル部門の六五〇人の兵士の責任者であったこと、現在はハラカテ・イスラミの責任者としてUAEで活動しているとして、原告に関する紹介文が記載された後、原告が、タリバンは戦争で自らの目的を達成することしか考えておらず、このような論理はいつか破綻するだろうと述べ、さらにタリバンに抵抗して退却させ、対話に応じさせようと考えている旨のタリバン政権を批判する内容のインタビュー記事が掲載されていることが認められる。

 

 また、二〇〇一(平成一三)年六月一九日付けで、アヌワリが原告に対し作成し、ファックスで原告に送信した書面(なお、同ファックスがアヌワリから原告に送信されたものであることは、甲第七二号証によっても裏付けられる。)には、タリバンからの確実な情報によれば、タリバンは原告の指名手配書をパキスタン大使館・UAE大使館に送付したこと、原告は十分注意し、可能であれば他国に出国するようにとの警告が記載されている。さらに、二〇〇二(平成一四)年四月四日付け毎日新聞朝刊(甲七二)には、同年三月にカブール在住のハラカテ・イスラミの諜報担当幹部ファゼル・ナビ・ハイダリが、取材に訪れた同紙記者に対し、部下のスパイからタリバンが原告を探している報告を受けていたと述べたことが認められる(さらに、これらの事実は、原告代理人大貫弁護士がカブールでの調査に基づいて作成した報告書中の記載からも裏付けられる。)。

 

  e 以上によれば、原告の供述のうち上記d(a)ないし(e)の各部分は、前記の歴史的事実及び成立に争いのない証拠のみによっても、裏付けのあるものと評価することができる。

 

  (イ) また、原告の供述は、アフガニスタンが共産政権であった頃から、ハラカテ・イスラミに入党し、司令官として同党の活動を継続していたとする点や、タリバン政権下においては、同党のUAE支部長として経済的支援を行うという形で反タリバン活動をしていたこと、その資金及び生活資金は、中古自動車部品の貿易により確保していたこと、反タリバンを内容とするインタビュー記事が新聞に掲載されたことを契機として、タリバンの諜報機関に個別的に把握されたため生命ないし身体の危険がある旨をアヌワリ等から知らされ、貿易のために過去六回訪れたことのあった日本で難民認定申請をしようと考えて今回入国したというものであって、その内容に特に不自然な点は見当たらないし、合理性を有するものと解される。また、原告は、上記のような供述を、難民認定手続や、違反調査等の手続及び本件訴訟手続の中で一貫して述べているものと認めることができ、原告の供述の信用性に影響を与えるような供述の変遷等を認めることもできない。

 

 

  (ウ) 被告らは、原告がタリバンにより指名手配された契機となったインタビュー記事が掲載されているとして提出したサハール紙(甲六九)は偽造されたものであり、同サハール紙の上記記事を敷衍したシャリアット・デイリー紙(甲七〇)、タリバンの指名手配書(甲七四)、UAEのアフガニスタン大使館からの呼出状も偽造である旨を主張した上、これらの書証が偽造されたものであることは、原告の難民性を基礎付ける供述全体の信用性に影響を与える旨を主張する。

 

 

  a そこで検討するに、上記サハール紙は、紙面左項右上部には二〇〇一年五月一六日を発行日とする記載がされているにもかかわらず、これと一体の紙面である右項右上部には同月二二日を発行日とする記載がされていることが認められ、同紙が日刊紙であることからすると、このような記載は著しく不自然なものといわざるを得ない。また、被告らが同紙の発行元から取り寄せたとする二〇〇一年五月一六日を発行日とするサハール紙と甲第六九号証のサハール紙は掲載されている写真及び掲載記事の見出しがすべて異なっており、他方被告らが発行元から取り寄せたとする同月二二日付けの同紙と甲第六九号証を比較すると、掲載されている写真及び掲載記事の見出しがほぼ一致すると認められるものの、被告らの取り寄せた同紙には、原告のインタビュー内容や原告の写真等、原告に関する記事は何ら掲載されていないことが認められる。さらに、甲第六九号証には、紙面右項の中央付近に記載された一体となる記事が、ダリ語で記載されているにもかかわらず、一文の途中からパシュトゥーン語で記載されている等、通常では考え難い体裁のものとなっており、内容にもつながりのない文章となっていることが認められる。これらの事実からすると、甲第六九号証は、原告のインタビュー記事を掲載することを目的として意図的に作成された偽造の新聞であるといわざるを得ず、少なくとも二〇〇一年五月一六日付けのサハール紙には、原告のインタビュー記事は掲載されなかったことが認められる。もっとも、原告は、本人尋問の際、被告らから甲第六九号証のサハール紙が偽造である旨の指摘を受ける前に、甲第六九号証には、原告がインタビューの際に述べた多くが記載されていないことや削除されていることを述べており、同記事の内容に違和感を感じていた旨を自ら述べたものと評価されること(原告本人四日目七八ないし八六項)、原告が同紙のインタビューを受けたとする経緯に関する供述や、同紙を入手した経緯に関する供述は、いずれも具体的かつ詳細に述べられていることに照らせば、原告がインタビューを受けた事実そのものが存在しなかったものとまで断定することはできないところである。

 

 

  b 次に、上記記事を敷衍したものとして原告が提出するシャリアット・デイリー紙について検討すると、同紙には、「反アフガニスタン・イスラム首長国のプロパガンダを外国で行っている者の一人がA・Bである。二〇〇一年五月一六日、サハールに反アフガニスタン・イスラム首長国のプロパガンダを行った。」等と記載されていることが認められるが、上記のとおり、同日付けのサハール紙にはそのような記事は掲載されていないことが認められることからすると、この新聞記事も偽造によるものであるといわざるを得ない。

 

 

  c さらに、原告がタリバンによる指名手配を受けたとして提出する指名手配書について検討すると、同号証には、「A・Bは、反乱及び犯罪を行う組織の司令官として、反アフガニスタン・イスラム首長国のプロパガンダを外国の報道機関に行ったものである」と記載された上、原告の身柄をアフガニスタンの裁判所に引き渡すよう命じる旨の記載がされているところ、原告が、同指名手配書に記載された「プロパガンダ活動」は、パキスタン(ペシャワール)の日刊紙である前記サハール紙(甲六九)への記事掲載を指すものと主張しており、その他に原告が同時期に外国の報道機関にタリバンに批判的な意見を述べたり、その旨の記事等が掲載された事実は全証拠によっても認めることができない(なお、原告は、二〇〇一(平成一三)年三月ころ、ハラカテ・イスラミの週刊誌であるマルドゥムにもインタビュー記事を掲載されているが、同週刊誌は「外国の報道機関」ではないから、マルドゥムの掲載を理由とするものとは考えられない。)。そうすると、前記のとおり原告がインタビューに応じたこと自体は否定できないから、それがタリバンの知るところとなった可能性がないではないものの、その程度の可能性によって甲第七四号証の成立の真正を認定することは困難といわざるを得ない。

 

 

  d 以上によると、上記各甲号証は、いずれも成立の真正が認められないものというべきである。

 

  (エ)a 次に、被告らは、甲第五三号証、第五八号証、第六一号証ないし第六三号証についても、偽造された疑いが強い旨を主張するので検討する。被告らは、上記各甲号証は、難民不認定処分に対する異議審査中に自費出国したE・F(本名はC・D)が、ハラカテ・イスラミの司令官に任命された旨等を証明するために偽造して提出した各書証(乙五三)と書式及び署名等が酷似していること、

 

原告とC・Dがアル・ヤシール社の経営者と従業員という関係を有すること等に照らすと、両名はいずれも偽造書証を提出して難民を偽装したものと解されることを理由とするものである。

 

そして、原告が、上記E・Fはハラカテ・イスラミには存在しない旨を述べていること

 

(原告本人五日目一五頂等)、

 

E・Fという人物はそもそも存在せず、C・Dが偽名を用いたものにすぎないことからすると、

 

E・Fに関する上記各資料は、いずれも偽造されたものであることが強く推認されるところであり、ペシャワールに旅券やタリバンによる召喚状等の文書の偽造を行う業者が存在することもこのような事実を裏付けるものである。

 

 

  b しかしながら、被告らの主張によれば、E・Fは、ペシャワールに存在する文書の偽造を商売とする者に偽造文書の作成を依頼したというのであるから、

 

E・Fの各資料は、真正に作成された書類に酷似させて作成されたものであることが当然推測されるところであって、原告の各書面の書式や署名が、このような専門業者により偽造された書面のそれと仮に酷似していたとしても、そのことのみから原告の各書証に偽造の疑いが生ずるものとは到底いい難いというべきである。

 

 

 

  c さらに、両名の各書証を比較すると、これらには以下のような相違点が認められるから、そもそも酷似しているともいうことができない。

 

 

すなわち、原告の上記各甲号証は、いずれもハラカテ・イスラミが発行した書面とされているところ、

 

 

甲第五三、五八、六一及び六三号証は、

 

書面の左上に「CENTRAL COUNCIL」との印字がなく、

 

甲第五三号証以外の三つの書面に押された印影の下部に

 

「GENERALMILITARY PRESIDENCY」との記載が認められるのに対し、

 

 

甲第六四及び六五号証には、書面の左上に「CENTRAL COUNCIL」との印字がされた上、

 

 

印影の下部には「CENTRAL COUNCI_(最後の文字は印影が明瞭でなく判然としない。)」の文字が認められる。

 

 

他方、これをE・Fの提出した書証について検討すると、乙第五三号証添付の資料五及び同六は、いずれも左上に「CENTRAL COUNCIL」との印字があるのに対し、

 

印影の下部には「GENERAL MILITARY PRESIDENCY」と記載されており、

 

原告の上記各甲号証とは異なるものである。

 

 

 

 また、甲第五七号証のミリタリーカードとE・Fのそれ(乙五三資料八)を比較すると、

 

契印の色が異なるほか、全体的に後者の方が印刷の色が薄く不鮮明であること、

 

裏面に印刷されたハラカテ・イスラミのマークの表示の色が明らかに異なることが容易に指摘できるし、

 

甲第五九号証の原告宛て感謝状とE・F宛てのもの(乙五三資料七)を比較すると、

 

後者はやはり印刷の色が薄い上、背景に透かし模様が印刷されていない点、

 

写真に押された契印及び下部の印影のインク色が前者は緑であるのに対し、

 

後者は青であって明らかに異なるものというべきである

 

(なお、同資料は写しであるから鮮明度や色合いについては原本と異なる可能性があるものの、透かし模様の有無は写しにも反映されるのが通常であるし、仮にそうでなくても、同資料の提出の際に入管当局が原本と照合を行ったことは同資料に記載されているところであり、それにもかかわらず、何らの注記等もされていないことからすると、同資料の原本にも透かし模様はなかったものと認めるほかない。)。

 

 

 

 そうすると、そもそも両者は酷似しているとも到底いうことができないし、両者を比較すると、E・Fの提出する各資料は先に指摘した諸点で偽造されたものである疑いがあるというべきであるのに対し、

 

原告の各甲号証がそのような資料と上記各点で異なるということは、むしろ各甲号証が真正に作成されたことを推認させる事実であるというべきであり、

 

上記各甲号証は真正に作成されたものと認められる

 

 

(なお、被告らの主張するように、原告とE・Fが、会社の経営者と従業員という親しい関係にあり、今回の入国後も本邦で面会していること、

 

感謝状の番号が連番になっていること等からすれば、

 

E・Fの上記資料は、原告の資料を見本等として作成された可能性が生じるものの、この点は原告の供述の信用性に疑いを生じさせるものとはいい難い。)。

 

 

  d 以上によると、前記のとおり、原告の供述は、歴史的事実及び上記各甲号証を除いた成立に争いのない書証のみを前提としても裏付けに欠けるところはなく、自然かつ合理的な供述であって、一貫性も認められるものであるところ、上記各甲号証により、原告の供述は一層信用性が高まるものということができる。

 

 

  (オ) 被告らは、原告が真にハラカテ・イスラミの司令官であれば、甲第六九号証のような偽造の証拠を提出する必要はないのであり、偽造の証拠を提出することは、原告の供述全体の信用性に疑いを抱かせる事実である旨を主張する。

 

 

しかしながら、本件では、前記のとおり原告が上記インタビューを受けたこと自体や、そのことがタリバンの知るところとなった可能性を否定することはできないし、

 

原告が甲第六九号証のサハール紙の偽造に自ら関与したものと断定することもできない。

 

また、仮に原告がこれらの書類の偽造に関与していたとしても、難民が自らの難民性の資料を収集することは極めて困難であるし、

 

一般に我が国において難民認定を受けることが極めて困難な状況にあることから、

 

真に難民性を有する者であっても、迫害のおそれのある本国への送還を恐れるあまりに、

 

自らの難民認定申請をより円滑に進めるために、難民性を基礎付ける資料を偽造して提出したり、

 

供述の中に誇張や虚偽の事実を一部含めることが多々あることは経験則上明らかであり、

 

特に当時は、後記のとおりアフガニスタン人に対する入国査証の発給すら厳格に制限されていたことにより、

 

我が国での難民認定を希望する者は不法入国を余儀なくされていたことからすれば、

 

このような一部の証拠の偽造等から直ちにその供述全体の信用性を否定するのは相当ではなく、

 

その他の証拠による裏付けがあるか否かや、供述全体の自然性、合理性や一貫性等という点を総合的に評価した上で慎重な検討がされなければならないというべきである。

 

 

 

 そうすると、前記検討のとおり、原告の供述を全体としてみると、信用性の高いものというべきであるから、仮に原告が自らの提出した資料の一部に、偽造の書証を意図的に提出したとしても、

 

これによって原告の供述が全体として信用性に欠けるものとなるということはできない。

 

 

 

  (カ) その余の被告らの主張について

 

 

  a 被告らは、原告の今回の入国の真の目的は、中古自動車部品の仕入れにあり、原告は組織的計画的に難民偽装を画策したものである旨を主張する。

 

 その根拠として、被告らは、原告が今回入国に至るまで本邦に六回入国しながらも、難民認定申請等をしていなかったこと、本件入国に先立ち査証申請をしたところ、発給を受けられるかが明らかになるまでに一か月程度かかるといわれ、すぐに適法な手続により入国することが困難であったとうかがわれることを指摘する。しかし、前記認定によれば、原告は、前回までの六回の入国の際には、ハラカテ・イスラミの司令官として活動しながらも、そのことをタリバンから個別的に認識されたり、タリバンが原告の身柄を探している等の事実に直面したことはなかったものと認められるのに対し、今回入国に際しては、原告はアヌワリからファックスにより危険が迫っている旨を知らされた上に、実際に親戚が連行される等の事実も聞き及んでおり、原告の生命及び身体に対する危険性が極めて具体的かつ切迫したものになっていたものと認めることができるから、原告が、第三国で難民申請をしようと決意したものと述べる点に不自然な点は見受けられず、被告らの指摘は当たらない。

 

  b 被告らの主張は、原告が日本における中古車部品販売事業を継続するために、真実は迫害を受けた事実が存在しないにもかかわらず、難民であるかのごとく偽装して難民認定申請をしたというものであるが、

 

日本においては、二〇〇〇(平成一二)年の難民認定申請件数は二一六件であるのに対し、

 

同年に認定された件数は二二件、

 

二〇〇一(平成一三)年は申請件数は三五三件であるのに対し、

 

認定件数は二四件にすぎない。

 

 

また、アフガニスタン国籍を有する難民認定申請については、

 

一九九八(平成一〇)年一月一日から二〇〇一(平成一三)年一一月三〇日までの間に難民認定申請をした者は一四九人であるが、

 

このうち認定を受けた者はわずか六名にとどまっていることは、

 

当裁判所に顕著である。

 

 

 

さらに、後記のように二〇〇一(平成一三)年に入ると我が国はアフガニスタン人に対する査証の発給を極度に制限しているのである。

 

これらのことをアフガニスタン人からみれば、我が国は以前からアフガニスタン人を保護しようという姿勢に欠けたばかりか、

 

この時期はさらにその傾向を強めて入国すら拒否しようとしているものと理解できるのであって、

 

そのような国で難民として認定されることは期待できないと考えるのが通常であり、

 

そのような我が国に対し、

 

難民でない者が難民であると装って難民認定申請をすると想定することには、やや無理があると考えられる。

 

 さらに、被告らは、アフガニスタン人の中古自動車部品の販売に携わる者が多数日本に不法入国している事実を指摘するが、

 

乙第八九号証及び平成一三年一一月二一日付けで開催された衆議院法務委員会における小野政府参考人の答弁によれば、

 

我が国では、平成一二年夏ころからアフガニスタン人が我が国へ入国しようとする際に必要な渡航証明書の発行事務についての審査を厳格化し、

 

その結果、アフガニスタン人に対する入国査証発行件数は、

 

平成一一年の一一一八件に対して平成一二年は五八四件、

 

平成一三年は一月から一〇月までで二四件と激減していることが認められ、

 

このこと自体が異常なものといわざるを得ないし、

 

この間、各証拠(甲八九の三末尾、乙七六資料七)記載のとおり、

 

他の先進諸国においてアフガニスタン人の難民認定申請者が急増していることと対比すると、

 

多数のアフガニスタン人が密入国を企てた背景には、

 

このような我が国の対応があったことに留意しなければならない(甲第八九号証の二(訳文一七頁)によると、UNHCR日本・韓国事務所も、この点につき同様の見解を有しているものと認められる。)。

 

 

 

 

 そして、原告の過去の入国歴や、原告が地理的に近く難民条約を批准しているイラン等に庇護を求めることを検討していないこと、

 

今回の本邦入国後も中古自動車部品の輸出や売却をしていること等に照らすと、

 

原告が難民認定申請をする際、中古車部品販売を継続したいという意図をも有していたことが一定程度推認される。

 

しかしながら、難民申請者が、母国から出て別の国で難民申請をする際には、その国で生活していく必要性があることから、

 

過去に訪れた経験のある国や、

 

自分が生計を立てることのできる見込みのある国をできる限り選択した上で難民認定を受けたいと考えることは人間として自然な感情であって、

 

難民申請者の心情のうちに難民認定を受ける希望と就労の希望が併存したからといって、

 

それ自体に責められるべき点は存在しない。

 

 

そうすると、過去に原告が六回にわたり日本に入国していたという事実から、原告が迫害の事実をねつ造した上、日本での居住・就業を望み難民認定申請をすることとしたと断定するのは短絡にすぎるというべきである。

  

 

 

(オ) 以上によれば、原告が日本で難民認定申請をした動機には、就労目的も含まれていること、原告が自らの難民認定手続を有利に進めるために、偽造された証拠を提出していることは被告らの主張のとおりであるものの、これらを考慮してもなお、原告の難民性を基礎付ける供述には全体として信用性が認められるものというべきである。

 

 

 

 ウ 小括

 

  (ア) 以上によると、原告が、アフガニスタン国籍を有するシーア派ハザラ人であって、ハラカテ・イスラミの司令官としてタリバン政権に反対する政治的意見を持って反タリバン活動をしていたために、前記のようなアフガニスタンにおける状況下で、民族、宗教及び上記政治的意見を理由として、タリバンによって迫害を受ける具体的なおそれを有していたものとの供述は十分信用することができるし、そのことを前提とすると、通常人が、本件不認定処分及び本件退令発付処分当時、原告の立場に置かれたとしても、本国に帰国すればいつ何時同様の事態に遭遇するかも知れないと考えるのが相当であるから、迫害の恐怖を抱くような客観的事情も存在するものと認められる。したがって、原告は、当時、難民条約及び難民議定書所定の難民に該当していたものと認められる。

 

  (イ) したがって、原告が難民条約上の難民に該当するにもかかわらず、この点を看過してされた本件不認定処分は違法なものとして取り消されるべきものである。

 

  (ウ) また、難民条約三三条は、締約国は、難民をいかなる方法によっても、人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見のためにその生命又は自由が脅威にさらされるおそれのある領域の国境へ追放し又は送還してはならない旨を定め、法五三条三項には、法務大臣が日本国の利益又は公安を著しく害すると認める場合を除き、前二項(退去強制を受けるものの送還先を定めるもの)には難民条約三三条一項に規定する領域の属する国は含まないものとすると定められているところ、本件退去強制令書は、その送還先をアフガニスタンとしており、前記のとおり、原告が本件不認定処分当時において難民に該当すると認められ、その翌日付けでされた本件退令発付処分時においてもその状態に変わりはないと認めるのが相当であるから、その時点で原告をアフガニスタンに送還することは許されず、本件で原告に発付された退去強制令書は、送還先の記載に誤りがあることは明らかといわざるを得ない。

 

 もっとも、法五一条及び法施行規則四五条の規定からすると、送還先は、退去強制令書に記載が求められる法的事項ではなく、退去強制令書は、それを受ける者に本邦から退去をせよとの意思表示をすることを本質とするものであって、送還先の記載は、処分が有する本来の効力に関する記載ではなく、同令書の執行の便宜のために記載されたものとみることもできるのであり、そのような解釈にたった場合、送還先の記載に誤りがあることは、直ちに退去強制令書発付処分全体を違法なものとするには疑問が生じないでもない。しかし、弁論の全趣旨によれば、現在の退去強制の実務において、退去強制令書発付処分の効力は、我が国からの退去のみならず、退去強制制書の送還先に記載された特定国への送還を本質とするものとして取り扱われており、被告審査官も送還先を退去強制令書の本質的要素ではないとの解釈を前提とした訴訟活動をしていないことが認められ、これらを前提とすると、送還先の記載に誤りがある場合には、退去強制令書全体を違法なものとしてその効力が否定されない限り、その時点において当該送還先への送還を阻止する手段がなかったことになるのであるから、上記のような解釈を前提としても、同令書全体に少なくとも重大な瑕疵があり無効であったと解さざるを得ない。

 

 

 

 

第四 結論

 

 以上によれば、原告の本件裁決の不存在確認を求める主位的訴え、本件裁決の無効確認ないし取消しを求める予備的訴えは、いずれも不適法であるからこれを却下するものとし、その余の本件退令発付処分の無効確認を求める請求及び本件不認定処分の取消しを求める請求は、いずれも理由があるから認容することとし、訴訟費用の負担について、行政事件訴訟法七条、民事訴訟法六四条ただし書、六五条一項本文及び六一条を適用して、主文のとおり判決する。

 

 

(裁判長裁判官 藤山雅行 裁判官 新谷祐子 加藤晴子)

 

 

 当事者目録

 両事件原告        A ・ B

 同訴訟代理人弁護士    大貫憲介

 同  山口元一   同  難波満

 同  近藤広明   同  藤岡淳

 同  渡部典子   同  亀井正照

 同  馬場孝之   同  北村聡子

 同  関聡介    同  土井香苗

 同  市川正司   同  松村眞理子

 同  生田康介   同  依田公一

 同  児玉晃一   同  渡邉彰悟

 同  大橋毅    同  伊藤和夫

 同  三木恵美子  同  矢澤昌司

 同  姜文江    同  見野彰信

 同  高木由美子  同  大木和弘

 同  正野嘉人   同  大野康博

 同  廣瀬理夫   同  小林明隆

 同  大江修子   同  岩井信

 同  儀部和歌子  同  原啓一郎

 第一事件被告 東京入国管理局成田空港

        支局主任審査官

              佐藤修

 両事件被告  法務大臣  野沢太三

 被告両名指定代理人    亀卦川健一

            〈ほか一五名〉