難民性が認められた事例(2)

 

 

 

 難民の認定をしない処分取消等請求事件(第1事件、第2事件)、退去強制令書発付処分取消等請求事件(第3事件)、東京地方裁判所判決/平成20年(行ウ)第261号、平成20年(行ウ)第273号、平成20年(行ウ)第274号、判決 平成22年1月29日、判例タイムズ1359号93頁について検討します。

 

 

 

 

 

 

 

【判示事項】

 

 

 

1 ミャンマー連邦の国籍を有する夫婦に対してされた難民の認定をしない処分が違法とされ,そのことから退去強制令書発付処分及び出入国管理及び難民認定法61条の2の2第2項による在留特別許可をしない旨の処分が違法又は無効とされた事例

      

 

2 当該外国人が難民であることは,出入国管理及び難民認定法49条に基づく異議の申出には理由がない旨の裁決の違法事由とはならない

      

 

3 難民である外国人の子に対してされた裁決及び退去強制令書発付処分が違法とされた事例

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

主   文

 

 

1 法務大臣が第1事件原告X1に対して平成18年8月22日付けでした難民の認定をしない旨の処分を取り消す。

 

2 東京入国管理局主任審査官が第1事件原告X1に対して平成18年8月25日付けでした退去強制令書発付処分が無効であることを確認する。

 

3 東京入国管理局長が第1事件原告X1に対して平成18年8月24日付けでした出入国管理及び難民認定法61条の2の2第2項による在留特別許可をしない旨の処分が無効であることを確認する。

 

4 法務大臣が第2事件原告X2に対して平成18年8月22日付けでした難民の認定をしない旨の処分を取り消す。

 

5 東京入国管理局主任審査官が第2事件原告X2に対して平成19年11月21日付けでした退去強制令書発付処分を取り消す。

 

6 東京入国管理局長が第2事件原告X2に対して平成18年8月24日付けでした出入国管理及び難民認定法61条の2の2第2項による在留特別許可をしない旨の処分が無効であることを確認する。

 

7 東京入国管理局長が第3事件原告X3に対して平成19年11月20日付けでした出入国管理及び難民認定法49条に基づく異議申立てには理由がない旨の裁決を取り消す。

 

8 東京入国管理局主任審査官が第3事件原告X3に対して平成19年11月21日付けでした退去強制令書発付処分を取り消す。

 

9 第1事件原告X1及び第2事件原告X2のその余の請求をいずれも棄却する。

 

10 訴訟費用は被告の負担とする。

 

       

 

 

 

 

事実及び理由

 

第1 請求

 1 第1事件

  (1) 主文1項から3項までと同旨

  (2) 東京入国管理局長が第1事件原告に対して平成18年8月25日付けでした出入国管理及び難民認定法49条に基づく異議申立てには理由がない旨の裁決が無効であることを確認する。

 2 第2事件

  (1) 主文4項から6項までと同旨

  (2) 東京入国管理局長が第2事件原告に対して平成19年11月14日付けでした出入国管理及び難民認定法49条1項に基づく異議の申出には理由がない旨の裁決を取り消す。

 3 第3事件

 主文7項及び8項と同旨

 

 

 

 

 

 

第2 事案の概要

 

 1 第1事件及び第2事件は,ミャンマー連邦(ミャンマー連邦は,平成元年に名称をビルマ連邦社会主義共和国から改称したものであるが,以下,改称の前後を区別することなく,同国を「ミャンマー」という。)の国籍を有する男性である第1事件原告(以下「原告父」という。)及び同女性である第2事件原告(以下「原告母」といい,原告父と併せて「原告父母」という。)が,出入国管理及び難民認定法(以下「入管法」という。)61条の2第1項に基づき難民の認定を申請したところ,それぞれ,法務大臣から難民の認定をしない旨の処分を受け,入管法61条の2の9に基づく異議の申立てについても法務大臣から理由がない旨の決定を受け,さらに,法務大臣から権限の委任を受けた東京入国管理局長(以下「東京入管局長」という。)から入管法61条の2の2第2項による在留特別許可をしない旨の処分を受けたため,原告父母が「難民」に該当するにもかかわらずこれを認めなかった上記各難民の認定をしない旨の処分は違法であり,上記各在留特別許可をしない旨の処分は無効である旨主張して,被告に対し,上記各難民の認定をしない旨の処分の取消し及び上記各在留特別許可をしない旨の処分の無効確認を求めるとともに,それぞれ,東京入国管理局(以下「東京入管」という。)入国審査官から入管法24条1号(不法入国)又は同条4号ロ(不法残留)に該当する旨の認定を受け,次いで,東京入管特別審理官から同認定に誤りがない旨の判定を受け,さらに,法務大臣から権限の委任を受けた東京入管局長から入管法49条1項に基づく異議の申出には理由がない旨の裁決を受け,東京入管主任審査官から退去強制令書発付処分を受けたため,原告父母が「難民」に該当するにもかかわらずされた上記各裁決には,東京入管局長が裁量権の範囲を逸脱し,又は濫用した違法があり,上記各裁決を前提としてされた上記各退去強制令書発付処分も違法である旨主張して,被告に対し,上記各裁決及び上記各退去強制令書発付処分の無効確認又は取消しを求めている事案である。

 第3事件は,ミャンマーの国籍を有する男性である第3事件原告(以下「原告子」という。)が,東京入管入国審査官から,入管法24条7号(不法残留)に該当し,かつ,出国命令対象者に該当しない旨の認定を受け,次いで,東京入管特別審理官から,上記認定に誤りはない旨の判定を受け,さらに,法務大臣から権限の委任を受けた東京入管局長から入管法49条1項に基づく異議の申出には理由がない旨の裁決を受け,東京入管主任審査官から退去強制令書発付処分を受けたため,原告子の両親である原告父母が「難民」に該当するにもかかわらずされた上記裁決には,東京入管局長が裁量権の範囲を逸脱し,又は濫用した違法があり,上記裁決を前提としてされた上記退去強制令書発付処分も違法である旨主張して,被告に対し,上記裁決及び上記退去強制令書発付処分の取消しを求めている事案である。

 

 

 

 

 

 2 前提事実

 

 

 本件の前提となる事実は,次のとおりである。なお,認定根拠は,各事実の後に付記する。

 

 

  (1) 原告らの身分事項等について

 ア 原告父は,昭和23年9月*日,ミャンマーのヤンゴン市において出生したミャンマー国籍を有する外国人の男性である。(乙1,2,8,10)

 イ 原告母は,昭和41年2月*日,ミャンマーのミャウンミャ市において出生したミャンマー国籍を有する外国人の女性である。(乙29,30,38)

 ウ 原告父母は,平成10年1月18日,ミャンマーの方式により婚姻した。(乙8,39,53,63)

 エ 原告子は,平成12年7月*日,原告父母の子として,東京都において出生したミャンマー国籍を有する外国人の男性である。原告子は,現在,東京都豊島区立Z小学校の3年生である。(甲105,107,乙61から63まで,66,70)

 

 

 

  (2) 原告らの入国及び在留の状況等について

 ア 原告父は,平成4年2月8日,有効な旅券又は乗員手帳を所持しないで,タイのバンコクから日本航空718便で新東京国際空港(現在の成田国際空港)に到着し,他人名義の旅券を利用して,本邦に上陸した。(乙1,3,4,7,8)

 イ 原告母は,平成5年2月3日,タイのバンコクから全日空1104便で福岡空港に到着し,在留資格を「短期滞在」,在留期間を「90日」とする上陸許可を受けて本邦に入国したが,その在留期限である同年5月4日を超えて本邦に不法残留した。(乙29,30,33,34,37,38)

 ウ 原告子は,平成12年7月5日,原告父母の間の子として,東京都内において出生したが,入管法22条の2第3項又は4項に基づく在留資格の取得許可を受けることなく,同条1項により本邦に在留することができる出生日から60日後である同年9月3日を超えて本邦に不法残留した。(乙61から63まで)

 

 

 

  (3) 原告らの退去強制手続等について

 ア 原告父について

 (ア) 警視庁田園調布警察署警察官は,平成18年6月12日,原告父を入管法違反容疑で逮捕した。(乙1)

 (イ) 東京入管入国警備官は,原告父が入管法24条1号(不法入国)に該当すると疑うに足りる相当の理由があるとして,平成18年6月30日,東京入管主任審査官から収容令書の発付を受け,同年7月3日,原告父に対し収容令書を執行するとともに違反調査を実施し,原告父を東京入管入国審査官に引き渡した。(乙4から6まで)

 (ウ) 東京入管入国審査官は,平成18年7月4日及び同月20日,原告父に係る違反審査を実施し,その結果,同日,原告父が入管法24条1号に該当する者である旨の認定を行い,原告父にこれを通知したところ,原告父は,同日,東京入管特別審理官による口頭審理を請求した。(乙7から9まで)

 (エ) 東京入管特別審理官は,平成18年8月10日,原告父に係る口頭審理を実施し,その結果,同日,東京入管入国審査官の前記(ウ)の認定に誤りのない旨判定し,原告父にこれを通知したところ,原告父は,同日,法務大臣に対し,異議の申出をした。(乙10から12まで)

 (オ) 法務大臣から権限の委任を受けた東京入管局長は,平成18年8月25日,前記(エ)の異議の申出について理由がない旨の裁決(以下「本件裁決(父)」という。)をし,同裁決の通知を受けた東京入管主任審査官は,同日,原告父に対し,同裁決を通知するとともに,ミャンマーを送還先とする退去強制令書を発付した(以下,この処分を「本件退令処分(父)」という。)。(乙13から16まで)

 (カ) 東京入管入国警備官は,平成18年10月25日,原告父を入国者収容所東日本入国管理センターに移収した。(乙16)

 (キ) 入国者収容所東日本入国管理センター所長は,平成19年1月19日,原告父に対し仮放免を許可した。現在,原告父は仮放免中である。(乙16,17)

 イ 原告母について

 (ア) 警視庁世田谷警察署警察官は,平成18年6月6日,原告母を入管法違反容疑で逮捕した。(乙29)

 (イ) 東京入管入国警備官は,原告母が入管法24条4号ロ(不法残留)に該当すると疑うに足りる相当の理由があるとして,平成18年6月6日,東京入管主任審査官から収容令書の発付を受け,同月7日,原告母に対し収容令書を執行するとともに違反調査を実施し,原告母を東京入管入国審査官に引き渡した。(乙34から36まで)

 (ウ) 東京入管入国審査官は,平成18年6月8日及び同月21日,原告母に係る違反審査を実施し,その結果,同日,原告母が入管法24条4号ロに該当し,かつ,出国命令対象者に該当しない旨の認定を行い,原告母にこれを通知したところ,原告母は,同日,東京入管特別審理官による口頭審理を請求した。(乙37から40まで)

 (エ) 東京入管特別審理官は,平成18年7月10日,原告母に係る口頭審理を実施し,その結果,同日,東京入管入国審査官の前記(ウ)の認定に誤りのない旨判定し,原告母にこれを通知したところ,原告母は,同日,法務大臣に対し,異議の申出をした。(乙41から43まで)

 (オ) 東京入管主任審査官は,平成18年8月4日,原告母に対し仮放免を許可した。(乙44)

 (カ) 法務大臣から権限の委任を受けた東京入管局長は,平成19年11月14日,前記(エ)の異議の申出について理由がない旨の裁決(以下「本件裁決(母)」といい,本件裁決(父)と併せて,「本件裁決(父母)」という。)をし,本件裁決(母)の通知を受けた東京入管主任審査官は,同月21日,原告母に対し,同裁決を通知するとともに,ミャンマーを送還先とする退去強制令書を発付した(以下,この処分を「本件退令処分(母)」といい,本件退令処分(父)と併せて「本件退令処分(父母)」という。)。(乙45から48まで)

 (キ) 東京入管主任審査官は,平成19年11月21日,原告母に対し仮放免を許可した。現在,原告母は仮放免中である。(乙49)

 ウ 原告子について

 (ア) 東京入管入国警備官は,平成18年8月28日,原告子に係る違反調査を実施した。(乙67)

 (イ) 東京入管入国警備官は,原告子が入管法24条7号(不法残留)に該当すると疑うに足りる相当の理由があるとして,平成18年8月29日,東京入管主任審査官から収容令書の発付を受け,同年9月1日,原告子に対して収容令書を執行するとともに,原告子を東京入管入国審査官に引き渡した。(乙68,69)

 (ウ) 東京入管入国審査官は,平成18年9月1日,原告母に対し,原告子に係る違反審査を実施し,その結果,同日,原告子が入管法24条7号に該当し,かつ,出国命令対象者に該当しない旨の認定を行い,原告子の法定代理人親権者である原告母にこれを通知したところ,原告母は,同日,東京入管特別審理官による口頭審理を請求した。(乙70,71)

 (エ) 東京入管主任審査官は,平成18年9月1日,原告子に対し仮放免を許可した。(乙72)

 (オ) 東京入管特別審理官は,平成18年9月28日,原告母に対し,原告子に係る口頭審理を実施し,その結果,同日,東京入管入国審査官の前記(ウ)の認定に誤りのない旨判定し,原告母にこれを通知したところ,原告母は,同日,法務大臣に対し,異議の申出をした。(乙73から75まで)

 (カ) 法務大臣から権限の委任を受けた東京入管局長は,平成19年11月20日,前記(オ)の異議の申出について理由がない旨の裁決(以下「本件裁決(子)」といい,本件裁決(父母)と併せて「本件各裁決」という。)をし,本件裁決(子)の通知を受けた東京入管主任審査官は,同月21日,原告母に対し同裁決を通知するとともに,原告子に対してミャンマーを送還先とする退去強制令書を発付した(以下,この処分を「本件退令処分(子)」といい,本件退令処分(父母)と併せて「本件各退令処分」という。)。(乙76から79まで)

 (キ) 東京入管主任審査官は,平成19年11月21日,原告子に対し仮放免を許可した。現在,原告子は仮放免中である。(乙80)

 

 

 

  (4) 原告父母の難民認定手続について

 ア 原告父について

 (ア) 原告父は,平成18年7月12日,法務大臣に対し,難民認定申請をした。(乙18)

 (イ) 東京入管難民調査官は,平成18年7月28日及び同年8月1日,原告父に係る調査を実施した。(乙19,20)

 (ウ) 法務大臣は,平成18年8月22日,前記(ア)の難民認定申請に対し,難民の認定をしない旨の処分(以下「本件不認定処分(父)」という。)をし,同月25日,原告父にこれを通知したところ,原告父は,同月28日,異議の申立てをした。(乙21,24)

 (エ) 法務大臣から権限の委任を受けた東京入管局長は,平成18年8月24日,原告父について,入管法61条の2の2第2項の規定に基づき,同項による在留特別許可をしない旨の処分(以下「本件不許可処分(父)」という。)をし,同月25日,原告父にその旨を告知した。(乙22,23)

 (オ) 東京入管難民調査官は,平成19年7月23日,原告父を審尋し,かつ,原告父が口頭で意見を述べる手続を実施した。(乙27)

 (カ) 法務大臣は,平成19年10月25日,前記(ウ)の異議申立てに対し,異議申立てを棄却する決定をし,同年11月2日,原告父にこれを通知した。(乙28)

 イ 原告母について

 (ア) 原告母は,平成18年6月14日,法務大臣に対し,難民認定申請をした。(乙50)

 (イ) 東京入管難民調査官は,平成18年7月26日,同月28日及び同年8月1日,原告母に係る調査を実施した。(乙51から53まで)

 (ウ) 法務大臣は,平成18年8月22日,前記(ア)の難民認定申請に対し,難民の認定をしない旨の処分(以下「本件不認定処分(母)」といい,本件不認定処分(父)と併せて「本件各不認定処分」という。)をし,同年9月8日,原告母にこれを通知したところ,原告母は,同月14日,異議の申立てをした。(乙54,57)

 (エ) 法務大臣から権限の委任を受けた東京入管局長は,平成18年8月24日,原告母について,入管法61条の2の2第2項の規定に基づき,同項による在留特別許可をしない旨の処分(以下「本件不許可処分(母)」といい,本件不許可処分(父)と併せて「本件各不許可処分」という。)をし,同年9月8日,原告母にその旨を告知した。(乙55,56)

 (オ) 東京入管難民調査官は,平成19年7月23日,原告母を審尋し,かつ,原告母が口頭で意見を述べる手続を実施した。(乙59)

 (カ) 法務大臣は,平成19年10月25日,前記(ウ)の異議申立てに対し,異議申立てを棄却する決定をし,同年11月21日,原告母にこれを通知した。(乙60)

 

 

  (5) 本件各訴えの提起について

 原告らは,平成20年5月2日,本件各不認定処分,本件各退令処分及び本件裁決(父母)の取消しを求める訴えを提起し(本件退令処分(父)及び本件裁決(父)の取消しを求める訴えは,その後,無効確認を求める訴えに変更された。),同月8日,訴状訂正の方式により,本件各不許可処分の無効確認を求める訴えを追加的に提起し,同月12日,訴状訂正の方式により,本件裁決(子)の取消しを求める訴えを追加的に提起した。(当裁判所に顕著な事実)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 3 争点

  (1) 本件各不認定処分の適法性(難民該当性)について

 原告父母は,入管法2条3号の2に規定する「難民」に当たるか。

  (2) 本件各不許可処分の有効性について

 原告父母が「難民」に当たらないとしてされた本件各不許可処分は,有効なものということができるか。

  (3) 本件裁決(父母)の適法性及び有効性について

 本件裁決(父母)は,いわゆるノンルフールマン原則に違反し,違法又は無効なものであるということができるか。

  (4) 本件裁決(子)の適法性について

 東京入管局長は,原告子につき在留を特別に許可すべき事情があるとは認められないと判断して本件裁決(子)をしているが,そのようにしてされた本件裁決(子)は,適法なものということができるか。

  (5) 本件各退令処分の適法性及び有効性について

 本件各裁決が違法であるから,これを前提とする本件各退令処分も違法又は無効であるか。本件退令処分(父母)については,いわゆるノンルフールマン原則に違反し,違法又は無効であるか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 4 争点に関する当事者の主張の要旨

  (1) 争点(1)(本件各不認定処分の適法性)について

 (原告らの主張)

 ア ミャンマーの一般情勢について

 (ア) ミャンマーでは,昭和63年に民主化運動が高揚したが,同年9月に軍がクーデターによって政権につき,民主化運動を弾圧した。

 平成2年5月に総選挙が実施され,国民民主連盟(以下「NLD」という。)が8割以上の議席を獲得したにもかかわらず,軍事政権は権限委譲を認めないばかりか,活動家ヘの抑圧を続けている。アウンサンスーチーの軟禁は,現在も継続中である。

 (イ) ミャンマーでは,軍事政権が,平成19年8月,天然ガスと石油の公定価格を大幅に引き上げたことから,いわゆる88世代学生グループや僧侶たちが抗議行動を起こし,大規模なデモ(サフラン革命)に発展したが,軍事政権は,デモ隊に発砲し,参加者を逮捕するなどして,これを弾圧した。

 (ウ) ミャンマーでは,一般国民及び政治活動家が行方不明になることが引き続き発生しており,拘留者に対する拷問が行われ,政治囚や少数民族が拷問や虐待を受けることが日常化している旨の報告がある。司法機関は行政機関から独立しておらず,政治的な裁判については公開されない。軍事政権は,恣し意的かつ大々的に一般国民の生活に干渉しており,多くの国民,とりわけ政治的に活動的な人物の移動及び活動を綿密に監視している。

 イ 原告母の個別事情について

 (ア) ミャンマーにおける活動について

 原告母は,昭和63年にヤンゴン大学に入学し,同年8月8日から同月15日ころまで,ヤンゴン市内でデモに参加した。原告母は,同月,ミャウンミャ市に帰り,民主化運動の拠点となった「キャンプ」に参加したが,国軍がクーデターで政権を掌握して弾圧を強めたことから「キャンプ」は閉鎖された。原告母は,ヤンゴンに戻り,平成3年に大学が再開されると再び民主化運動を行い,学生グループを作り,デモに参加するなどした。原告母は,同4年にキャンパス内でデモをしていたところ,機動隊に鎮圧され,身柄を拘束されて警察署に連行された。原告母は,2日間拘束され,取調べを受けた上に,今後政治活動を行わないという内容の誓約書に署名させられたが,警察に賄賂を支払って釈放された。

 原告母は,上記拘束後,当局から監視されていると感じるようになり,マンダレーに逃れたところ,軍情報部の関係者と思われる人物から捜されるようになり,身の危険を感じた。原告母は,日本在住の活動家であるA(以下「A」という。)を頼ろうと考え,ブローカーを通じて旅券を取得し,タイのバンコクを経由して,平成5年2月3日に本邦に上陸した。

 (イ) 日本における活動について

 原告母は,来日後,Aの下で同人の活動を手伝うようになった。また,Aが経営するミャンマー料理店パガン(以下「パガン」という。)で,平成5年5月ころから同12年ころまで,調理等をするなどして稼働した。パガンには世界的にも著名な活動家が訪れ,民主化運動について活発な議論が行われ,原告母も調理をするなどしながら議論に参加した。

 原告母は,平成10年,Aと共にビルマ女性連盟(以下「BWU」という。)の日本支部を発足させ,ミャンマーにおける女性の権利確保を目指して活発に民主化運動を行い,毎週日曜日の定例会議への参加のほか,デモや年10回ほど行われる講演会に参加するなどした。原告母は,同12年に原告子を出産し,育児のため活動をすることができない時期もあったが,その後も活動を継続した。

 原告母は,現在に至るまでBWU日本支部の初期からのメンバーとして活動をするほか,平成18年3月5日,ビルマ民主連合(以下「DFB」という。)の日本支部に加入するなどして,活発に民主化運動を継続している。

 ウ 原告父の個別事情について

 (ア) ミャンマーにおける活動について

 原告父は,昭和48年ころ,ヤンゴン大学に入学した。同49年ころ,同大学近くの工場でデモが起きた際,原告父は,クラスメートにデモへの参加を呼びかけ,率先してデモに参加した。また,原告父は,同年12月に起きたウー・タント事件においても,クラスメートをまとめてデモに参加した。上記デモが鎮圧された後,原告父は警察に同行を求められ,尋問を受けた。

 原告父は,昭和57年ころからマグウエーの国営石油工場に勤務していたが,同62年ころ,政府の経済政策を批判する内容等を記載したビラを職場の仲間に配布したことから,工場の幹部に呼び出され,退職を余儀なくされた。その後,原告父は,ヤンゴン市に戻って実家の家業を手伝っていたが,民主化運動のためのグループを作り,同63年8月8日のデモには率先して参加し,同月半ばころまで何度もデモに参加した。原告父は,同年9月18日のクーデターの後,警察署に3回ほど呼び出されて取調べを受けた。

 原告父は,平成2年10月ころ,民主主義が必要であり,軍事独裁者たちを打倒しなければならないという意味を込めた詩を記載した書面を周囲の知り合いに配ったところ,親しくしていた地区評議会の幹部から,この件を上層部に訴えようとしている者がいると教えられた。原告父の母親は,原告父に外国への逃亡を勧め,ブローカーを通じて原告父の旅券を入手した。原告父は,同3年3月ころ,ヤンゴン市からタイに出国し,さらに,同4年2月ころ,他人名義の旅券を用いて日本に上陸した。

 (イ) 日本における活動について

 原告父は,来日後しばらく団体には所属しなかったが,民主化運動のための寄付をしたり,集会に参加するなどして活動を継続し,平成9年ころ,パガンで働いていた原告母と知り合い,原告母の活動を支援するようになり,また,原告父自身もデモに参加するなどした。原告父は,平成18年3月,DFB日本支部に加入し,同年4月には,政治活動部門の副責任者になり,多くの集会に実行委員として加わり,また,多くデモに参加するなどして,積極的に活動している。

 エ 以上の諸点を考慮すれば,原告父母は,その人種,宗教,政治的意見又は特定の社会的集団に属することを理由として,ミャンマーに帰れば迫害を受けるおそれを有しており,難民に該当するというべきである。また,原告父母について,その一方について難民性が認められる場合には,家族統合の原則により,他方についても難民の地位が認められなければならない。

 

 

 (被告の主張)

 ア 原告母の個別事情について

 (ア) ミャンマーにおける活動について

 原告母は,ミャンマーにおいて,民主化運動に参加した旨主張するが,昭和63年当時,ミャンマー国内においてデモに参加した者は極めて多数に上ると考えられ,原告母は,多数の参加者の1人として参加したにすぎない。ミャウンミャでの活動については,原告母は,本件不認定処分(母)に対する異議申立後に初めて供述しており,信用できない。

 また,原告母は,デモに参加した際に身柄を拘束され,誓約書を書かされた旨主張するが,この点に関する証拠は原告母の供述のみである上,本件不認定処分(母)に対する異議申立後に初めて供述されており,信用できない。仮にそのような事実があったとしても,ミャンマー政府がデモを制圧する中で原告母の身柄を拘束したものと推測され,原告母を標的として身柄拘束をしたものではないと考えられ,1日で身柄を釈放されていることに照らせば,ミャンマー政府の関心を引くような活動ではなかったというべきである。

 原告母は,その後マンダレーに逃れたが,軍関係者から行方を捜されたことから出国を決意した旨主張するが,ミャンマー政府が原告母の行方を捜す理由はなく,不自然かつ不合理である。

 (イ) 日本における活動について

 原告母がBWU日本支部に加入したのは来日から約5年後の平成10年である上,同日本支部において積極的に活動を始めたのは同18年からであって,それ以前は民主化活動に積極的に関わっていたものではなく,しかも,原告母の活動は,会合,講演会及びデモへの参加という程度であるから,原告母が同日本支部での活動を理由にミャンマー政府から反政府活動家と認識されているとは考え難い。

 また,原告母が加入したというDFB日本支部は,平成17年6月に設立された組織であり,同日本支部の規模は,同18年7月の時点でメンバーが20人程度というものにすぎず,このような組織のメンバーであることをミャンマー政府が殊更問題視しているとは考え難い。そして,原告母のDFB日本支部での活動内容についても,組織の一員としてデモに参加した程度にすぎない。

 なお,原告母は,平成5年から同12年まで,パガンで稼働していたことを迫害を受ける根拠として述べるようであるが,原告母はパガンで料理人として稼働していたにすぎず,このことが原告母の難民該当性を基礎付ける理由とはなり得ない。

 イ 原告父の個別事情について

 (ア) ミャンマーにおける活動について

 原告父のミャンマーにおける活動に係る主張を裏付ける客観的証拠はない。仮に,原告父の主張する事実が存在したとしても,反政府活動の態様は,デモへの参加とその周辺的な活動にすぎず,特に昭和63年における活動は,デモ等の民主化運動が高揚した時期におけるものであることからすると,原告父は,反政府活動に参加した多くのミャンマー国民の1人にすぎないというべきである。

 また,原告父は,警察に呼び出された旨主張するが,これを裏付ける客観的な証拠はない上,仮にそのような事実があったとしても,3回ほど取調べを受けたにすぎず,しかも,原告父が実行委員ではないと答えたことで帰宅を許されたというのであるから,ミャンマー政府が原告父を反政府活動家として重視していなかったことは明らかである。

 さらに,原告父は,平成2年10月ころ,政府に反対する内容の詩を作成し,周囲の知り合いに配布したなどと主張するが,上記詩の内容も定かではなく,しかも数人の知人に配ったという程度のものであるから,極めて僅少な活動というほかない。

 (イ) 日本における活動について

 原告父は,本邦入国後,積極的に政治活動をするということはなく,民主化活動をしている者に対し寄付をする程度であり,とりたてて政治活動を行っていなかったものである。原告父は,平成18年3月にDFB日本支部に加盟し,デモに参加するなどした旨主張するが,その活動実態は,指導的な役割を担っていたわけではなく,単に一参加者として参加していたにすぎない。また,原告父は,同年4月には,DBF日本支部の政治活動の副責任者になったというものの,そもそも同日本支部は,同17年6月に設立された組織であり,設立から日が浅く,その規模は,同18年7月の時点でメンバーが20人程度というものにすぎないのであって,このような組織での活動を理由としてミャンマー政府から積極的な反政府活動家として関心を寄せられているということはできない。

 ウ 原告父母の難民性を否定する事情について

 ミャンマーにおいては,反政府活動家に対する旅券発給審査は相当厳格に実施されており,ミャンマー政府が反政府活動家として関心を寄せている人物に対して,旅券を発給したり,旅券の更新をしたりするとは考え難い。しかし,原告父母は,それぞれミャンマーにおいて,正規に本人名義旅券の発給を受け,平成16年1月には,在日ミャンマー大使館において,旅券の更新を受けており,それぞれの時点において,ミャンマー政府が原告父母を迫害の対象としていなかったことが強く推認される。

 また,ミャンマーにおいては,反政府活動家に対する出国手続も相当厳格に実施されており,原告父母が正規の手続で何の問題もなくミャンマーを出国していることからすれば,少なくとも出国の時点においてミャンマー政府が原告父母を迫害の対象としていなかったことが強く推認される。

 さらに,原告母が来日から2箇月後には東京都内のクリーニング工場で稼働を開始し,その後も飲食店で働くなどして,平成5年から同10年までの間,毎月金銭をミャンマーへ送金していたこと,また,原告父が来日直後から東京都内の飲食店で稼働を開始し,DFB日本支部のメンバーになるまでの約14年間,ミャンマー政府に対する表立った反政府活動をしていなかったことを考慮すれば,原告父母の来日はいずれも稼働目的であったと認められる。そして,真に迫害を恐れる者であれば,特段の事情がない限り,逃避国に対して速やかに難民認定を申請するか,庇護を求めるのが自然と考えられるところ,原告父母は,ミャンマーを出国してから,長年にわたり,難民認定申請はもちろん,何ら庇護を求めることなく不法就労をしていたのであって,このことは,原告父母がミャンマー政府の迫害を恐れて出国したものではないという状況を強くうかがわせるものであって,原告父母自身も自己を難民と考えていなかったことを示す1つの事情であるというべきである。

 エ 以上のとおり,原告父母のミャンマー及び日本における活動については,ミャンマー政府が関心を寄せるようなものとは認められず,かえって,原告父母の難民性を疑わせる事情もあることから,原告父母を難民と認めることはできない。

 

 

 

 

 

  (2) 争点(2)(本件各不許可処分の有効性)について

 (原告らの主張)

 原告父母が難民である以上,原告父母に在留特別許可をしない本件各不許可処分が無効であることは明らかである。

 (被告の主張)

 原告父母は難民とは認められないから,原告らの主張はその前提において失当である。また,原告父母が来日するまでは我が国社会と特段の関係を有しなかった者であり,いずれも稼働能力を有する成人であることを考慮すると,他に在留を特別に許可すベき積極的な理由は見当たらない。

 そして,本件各不許可処分に重大かつ明白な瑕疵はないから,本件各不許可処分が無効であるとする原告らの主張には理由がない。

 

 

 

 

  (3) 争点(3)(本件裁決(父母)の適法性及び有効性について)について

 (原告らの主張)

 難民の地位に関する条約(以下「難民条約」という。)1条の「難民」に該当する外国人を退去強制することは,確立した国際慣習法及び難民条約33条1項に定められたノンルフールマン原則に違反するものである。また,難民を国籍国に送還すれば,国籍国によって生命及び身体の自由が侵害されるという危険にさらされるのであって,その違法性は,重大かつ明白である。したがって,難民であることを看過してされた本件裁決(父母)は,違法かつ無効である。

 (被告の主張)

 原告父は,本邦に不法入国した者であり,入管法24条1号所定の退去強制事由に該当し,また,原告母は,本邦に不法残留する者であり,入管法24条4号ロ所定の退去強制事由に該当し,かつ,出国命令対象者に該当しない。したがって,原告父母が法律上当然に退去強制されるべき外国人に当たることは明らかであり,本件裁決(父母)は適法である。

 

 

 

  (4) 争点(4)(本件裁決(子)の適法性)について

 (原告らの主張)

 原告父母は「難民」に該当するから,本件裁決(子)の当時7歳で両親の保護下に置かれていた原告子に対しても,当然に在留特別許可がされるべきであるところ,原告子に対して在留特別許可をせずにされた本件裁決(子)は,違法である。

 (被告の主張)

 原告子は,本邦に不法残留するに至った者であり,入管法24条7号所定の退去強制事由に該当し,かつ,出国命令対象者に該当しないから,原告子が法律上当然に退去強制されるべき外国人に当たることは明らかである。そして,原告父母は難民とは認められないから,原告らの主張はその前提において失当であり,他に,原告子に在留を特別に許可しなければ法の趣旨に反するような極めて特別な事情があるということはできないから,原告子に在留特別許可をしなかった東京入管局長の判断に裁量権の逸脱又は濫用はない。

 

 

 

  (5) 争点(5)(本件各退令処分の適法性及び有効性)について

 (原告らの主張)

 本件各裁決はいずれも違法であるから,本件各退令処分は,いずれもその違法性を承継し,違法である。

 また,本件退令処分(父母)は,原告父母が難民であり,ミャンマーに送還されれば拷問を受けることになると信ずるに足る実質的な根拠があるのに,送還先としてミャンマーを指定しており,ノンルフールマン原則に違反し,違法かつ無効である。

 (被告の主張)

 退去強制手続において,法務大臣から「異議の申出には理由がない」との裁決をした旨の通知を受けた場合,主任審査官は速やかに退去強制令書を発付しなければならないのであって,主任審査官には退去強制令書を発付するにつき裁量の余地は全くないから,本件各裁決が適法である以上,本件各退令処分も当然に適法である。

 また,原告父母が難民であるとは認められないから,本件退令処分(父母)がノンルフールマン原則に違反する余地もない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第3 当裁判所の判断

 

 

 1 認定事実

 前記第2の2の前提事実(以下「前提事実」という。)のほか,証拠及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実を認めることができる。(認定根拠は各事実の後に付することとする。)

  (1) ミャンマーの一般情勢等について

 ア ミャンマーは,昭和23年にイギリスから独立したが,ネ ウィン将軍が率いる軍が,同37年3月,クーデターを決行し,全権を掌握した。同年7月にはビルマ社会主義計画党が結成され,さらに,同39年3月の国家統制法により,他の政党が禁止された。(弁論の全趣旨)

 イ 昭和63年3月以降,ヤンゴン市で学生らの反政府デモが日増しに拡大して警察や軍と衝突し,同年8月8日には,学生や市民による反政府ゼネストが全国で行われるなど,大規模な民主化運動に発展し(いわゆる8888事件),ミャンマーに帰国中であったアウンサンスーチーは,民主化運動のリーダー的な存在となった。しかし,上記民主化運動は,軍によって弾圧され,同年9月18日,軍事クーデターにより,国家法秩序回復評議会(以下「SLORC」という。)が全権を掌握し,SLORCによる軍事政権が成立した。(弁論の全趣旨)

 ウ SLORCは,平成元年7月,アウンサンスーチーを国家破壊分子法違反を理由に自宅軟禁し,その政治活動を禁止した。(弁論の全趣旨)

 エ 平成2年5月27日,約30年ぶりに複数政党参加による総選挙が施行され,アウンサンスーチーの率いる国民民主連盟(以下「NLD」という。)が485議席中392議席を獲得し,約8割の議席を占めて勝利したにもかかわらず,SLORCは,民政移管のためには堅固な憲法が必要であるとして,NLDに政権を委譲しなかった。(弁論の全趣旨)

 オ SLORCは,平成8年5月及び9月に,NLD主催の議員総会や党集会の前に多数のNLD関係者を拘束した上,アウンサンスーチーの自宅前道路を封鎖し,議員総会や党集会の開催を妨害した。(弁論の全趣旨)

 カ 平成8年10月23日,ヤンゴン市の学生約500人が警官の学生への暴力に抗議しデモを行ったのを始めとして,各地で学生デモが発生し,同年12月半ばまで続いたが,軍事政権は学生を強制排除した。同9年1月,同8年12月のデモを扇動したとしてNLD党員11人を含む活動家34人が禁錮7年の実刑判決を受けた。(弁論の全趣旨)

 キ 平成8年12月25日,ヤンゴン市の仏教寺院において爆弾が爆発して死傷者を出すという事件があり,SLORCは,同事件は全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)及びカレン民族同盟(KNU)によるものと非難する声明を出した。また,同9年4月6日,SLORCの第二書記であるティンウー中将の自宅に小包が届き,これが爆発して同人の長女が死亡するという事件が起こった。(弁論の全趣旨)

 ク SLORCは,平成9年5月21日,NLDの総選挙圧勝7周年記念の議員総会を阻止するため,NLD党員ら多数を拘束し,最終的には約300人を拘束した。(弁論の全趣旨)

 ケ 軍事政権は,平成9年11月15日,SLORCを国家平和発展評議会(SPDC)に改組した。(弁論の全趣旨)

 コ NLDは,平成8年3月及び同10年6月,軍事政権に総選挙の結果に基づく国会開催を要求したが,軍事政権がこれに応じないことから,同年9月16日,国会議員を代表する10人で構成する委員会を設置し,第1回会合を開催した。(弁論の全趣旨)

 サ アウンサンスーチーは,平成8年後半から自宅外に出る自由及び訪問者を受け入れる自由を次第に制限されるようになり,同10年8月,同12年8月及び同年9月の計3回にわたり,NLDの幹部と共に地方に赴こうとするのを強制的に自宅に連れ戻されるという事件が起こり,その後は事実上の自宅軟禁の措置が採られ続けていたが,同14年5月6日に至って軟禁状態が解かれた。しかし,同15年5月30日には,アウンサンスーチーが地方遊説に出掛けていた際に襲撃され,アウンサンスーチー,NLD副議長のティンウーなどNLD幹部らが身柄を拘束されるというディペイン事件が起きた。アウンサンスーチーは,その後,釈放されたものの,現在に至るまで自宅軟禁の状態が続いている。(甲6,7,弁論の全趣旨)

 シ 平成19年8月に軍事政権が天然ガスと石油の公定価格を大幅に引き上げたことに対し,同月17日,学生グループが声明を発表し,同月18日,ヤンゴン市で抗議行動を起こした。また,同年9月18日,軍隊が僧侶によるデモを弾圧し,その際に兵士が僧侶に暴力を振るったことにつき,軍事政権が謝罪しなかったことなどから,全国で僧侶たちが覆鉢を開始した。そして,同月24日,著名な芸能人や文学人が僧侶たちの抗議行動を支持し,数万人が参加する大規模なデモに発展した(いわゆるサフラン革命)。軍事政権は,同月26日以降,デモ隊への発砲を開始し,僧侶や一般市民の犠牲者を出し,多数のデモ参加者を拘束するなどして弾圧した。その中で日本人ジャーナリストが射殺される事件が起きた。(甲110,弁論の全趣旨)

 ス ミャンマーにおいては,人権尊重の理念が浸透しているとはいい難く,表現,報道,集会,結社又は移動の自由が否定され,SPDCによる恣意的な逮捕,軟禁及び拘留が日常的に行われており,兵士らが,非武装市民に対して超法規的な殺害を行っているほか,暴行や強姦をしている旨の報告がある。当局は,緊急事態法,非合法団体法,国家保護法等の法律を使って,反政府の立場にある者を容易に処罰することが可能であり,これらの法律により多くの者が政治囚として逮捕されている。拷問を禁止する法律はあるが,治安警察は,政治囚や少数民族に対し,日常的に拷問や虐待を行っているとされる。司法機関は,軍事政府に対して独立した地位を占めておらず,特に政治問題に関する裁判は公開されない。

 また,軍事政権は,広範な分野にわたって恣意的に市民生活への干渉を行っており,政府は,広大な情報ネットワークや行政手続を通じて,全国民の移動について細かく監視し,多くの国民の活動について詳細に把握しているとされる。(甲1,4,8,10から13,弁論の全趣旨)

 

  (2) 原告母の個別事情について

 ア ミャンマーにおける活動等について

 (ア) 原告母は,昭和41年2月*日,ミャンマーのミャウンミャ市において出生した。原告母には,両親,兄及び妹がおり,現在もミャウンミャ市で生活している。また,以前,原告母の祖父母,叔父及び従兄弟が,ヤンゴン市に居住していたが,原告母の来日後に祖父母と叔父は死亡し,従兄弟は,平成14年ころ,米国に渡った。(甲105,乙38,50,前提事実)

 (イ) 原告母は,昭和62年6月,ミャウンミャ市内のパテイン大学に入学した。原告母の両親はミャウンミャ市内でレストランを開いていたが,同年の廃貨令による混乱を受けて店がつぶれ,これをきっかけに原告母は政府に対する不満を覚えるようになった。(甲105,乙38,50,58,59)

 (ウ) 昭和63年3月にいわゆるポンモー事件が起き,原告母は,民主化運動に興味を抱くようになった。原告母は,同年6月にヤンゴン大学に編入したが,上記事件の影響で大学はほとんど閉鎖された状態であった。

 同年8月8日,ヤンゴン市において大規模なデモ(いわゆる8888事件)が起き,原告母は,従兄弟と共にデモに参加し,集会に参加するなどした。その後,原告母は,デモへの参加に反対する母親に連れられミャウンミャ市に戻ったが,民主化運動の拠点となった「キャンプ」に通い,デモに参加したり,集会のビラを配るなどして活動を続けた。しかし,同年9月18日に軍がクーデターで政権を掌握すると「キャンプ」は閉鎖され,また,参加者が逮捕されているとの情報が流れた。原告母は,身の危険を感じ,ヤンゴン市に逃亡し,しばらく同市内の祖父宅に居住した。(甲105,乙50,58,59,原告母本人)

 (エ) 平成3年ころ,ヤンゴン大学が安定的に再開されるようになった。原告母は,同大学2年生として大学に通い,友人と共にグループを作り,全ビルマ学生連盟から情報提供を受けて活動していた。同年10月ないし12月ころ,原告母が同級生と共にキャンパス内でデモをしていたところ,機動隊から取り締まりを受けて警棒で殴られるなどしたこともあった。

 平成4年になり,原告母は3年生に進んだが,大学は,学生のデモを受けてしばしば閉鎖されるようになっていた。原告母は,他の学生に声を掛けてヤンゴン大学のメインキャンパス内でデモを行っていたところ,機動隊及び軍情報部(MI)と思われる者によって取り締まられ,身柄を拘束されてカマユッ警察署に連行された。原告母は,警察から取調べを受け,今後政治活動を行わないという内容の誓約書に署名させられたが,原告母の母親が多額の賄賂を警察に支払い,翌日,釈放された。(甲105,乙50,52,58,原告母本人)

 (オ) 原告母は,上記拘束後から,家の周りを監視されていると感じるようになり,母親や祖父と相談した上,マンダレーに移った。その後,軍情報部の関係者と思われる人物が,親戚に原告母の居場所を尋ねることがあった。原告母は,約1箇月間マンダレーで生活していたが,1人で隠れた生活をすることに耐えられず,ミャンマーからの出国を考えるようになり,叔父から友人の友人であるAが,日本で民主化活動をしていることを聞き,日本に行くことを決意した。Aは,昭和62年から同63年にかけてミャンマーのヤンゴン市を拠点に民主化運動をし,8888事件においてデモを企画するなどした活動家であり,平成元年初め頃,タイを経由して日本に逃れ,同4年から5年までは在日ビルマ人協会(BAIJ)の書記長,同5年から6年までは,ビルマ青年ボランティア協会(BYVA)の書記長を務めるなどの活動をしていた。

 原告母の母親がブローカーに110万チャットを支払って,原告母のために正規の旅券を入手してくれたことから,原告母は,平成5年初めころ,ヤンゴン市からタイのバンコクに出国し,バンコクで叔父の友人に会ってAの連絡先を聞き,同年2月3日,日本に向け出国した。(甲104,105,113から117まで,乙38,52,58,59,証人A,原告母本人)

 イ 日本における活動等について

 (ア) 原告母は,平成5年2月3日,福岡空港に上陸した後,東京に移動し,同年3月ころ,Aに会うことができた。原告母は,Aから住居を紹介され,昼はクリーニング工場やパン工場で働いていたが,同年5月から同12年ころまでは,夕方からはAが経営するパガンで,主に調理を担当するなどして働くようになった。なお,原告母は,原告父と結婚するまでは,ミャンマーの家族に月10万円以上の金銭を送金するなどしていた。(甲33の1から4まで,104,105,乙34,38,39,52,59,証人A,原告母本人,前提事実)

 (イ) そのころ,パガンには,著名な活動家であるモーティーズンやビルマ連邦国民連合政府の首相であるセインウィンを始め,多くのミャンマー人活動家が訪れ,民主化運動について活発な議論が交わされるなどしていた。原告母は,パガンで働く傍ら,著名な民主活動家と交流したり,その話を聞くなどしていた。

 原告母は,Aが在日ビルマ人協会(BAIJ)の書記長を務めていたことから同協会の活動を手伝うようになり,また,Aがビルマ青年ボランティア協会(BYVA)の書記長になったことから同協会の活動にも参加するようになり,集会やデモに参加し,資金集めのためのイベントや冊子の販売等を行うなどした。また,原告母は,平成10年には,在日ビルマ人協会(BAIJ)の正式なメンバーになった。(甲104,105,113から117まで,乙52,58,59,証人A,原告母本人)

 (ウ) 原告母は,平成10年1月18日,原告父と,東京原宿の中華レストランにおいて,ミャンマーの方式により婚姻した。なお,Aが,原告母の結婚の証人となった。(甲104,105,乙53,前提事実)

 (エ) 平成10年4月ころ,Aを代表とするビルマ女性連盟(BWU)日本支部が結成された。原告母は,同支部の結成に準備の当初から関与し,同支部発足後はメンバーとなり,毎週日曜日の定例会に出席するほか,デモへの参加,年10回ほど開催される大小の講演会の準備,同支部の宣伝や活動資金の集金,ビルマ語教室を手伝うなどの活動をした。同11年には,BWUのメンバーであったBが,「軍靴の下にあえぐビルマ女性」という題目で講演会を行い,原告母はスタッフとして参加した。なお,Bは,不法滞在で摘発され,上記講演の数箇月後にミャンマーに帰国したところ,ミャンマーの空港で逮捕され,いったん釈放されたが,数箇月間にわたり取調べを受けるなどした。Bについては,上記帰国から約9箇月後に死亡したという情報もある。

 原告母は,平成12年7月*日,東京都内において,原告子を出産し,以後数年間は,育児等のため活動を停止していたが,やがて活動を再開し,同18年5月16日には,カレン族への弾圧に反対するミャンマー大使館前のデモに参加し,同月30日には,ディペイン事件3周年記念日にBWU日本支部を代表してミャンマー大使館の正門前に献花するなどした。原告母は,その後,BWU日本支部の3人の執行委員(組織の執行方針を決める者)の1人として,組織の意思決定に関与するほか,経理を担当しており,Aに次ぐ中心的なメンバーとして重要な役割を果たしている。なお,BWU日本支部は当初10ないし15人で発足し,その後,メンバーは最大40ないし50人に増えたが,同21年には20ないし30人程度である。また,BWU日本支部発足時からのメンバーで,同年現在も残っている者は,Aと原告母のみである。(甲20から32まで,104,105,乙34,38,39,50,51,58,59,証人A,原告母本人)

 (オ) 平成17年6月にDFB日本支部が結成され,原告母は,同18年3月5日,同日本支部に加入した。原告母は,本件不認定処分(母)の前後を通じ,DFB日本支部のメンバーとして,定例会や多くのデモに参加するほか,DFBの議長(Chairman)であるモーティーズンの来日時に集会を開くなどの活動をしている。DFB日本支部のホームページには,原告母の写真が名前付きで掲載されており,原告母がデモに参加した際の写真もホームページ上に掲載されている。なお,DFB日本支部のメンバーは,同年当時は18人程度であったが,同21年現在は約60人である。(甲34から39まで,48から57まで,73,105,乙18,19,51,52,58,原告母本人,原告父本人)

 

 

 

 

 ウ 事実認定の補足説明

 (ア) 被告は,原告母のミャンマーにおける活動等については,原告らの主張を裏付ける客観的な証拠がなく,原告母の供述も信用できない旨主張する。

 しかし,そもそも,ミャンマーにおける反政府活動の内容等について,その認定の主要な根拠を本人の供述に求めることは,その性質上やむを得ないものであるということができ,これを裏付ける客観的な証拠がないというだけで,直ちに本人の供述の信用性を否定するのは相当ではない。

 

 

そして,この点に関する原告母の供述内容は具体的であり,前記(1)のミャンマーの一般情勢等とも整合するものであって,特に不合理な点は見当たらない。また,原告母がミャンマーを出国し,来日した際の状況については,原告母の供述は,証人Aの証言内容及び陳述内容(甲104)とも整合しており,原告母の本人尋問における供述内容及び陳述内容(甲105)は,難民認定申請手続及び異議申立手続における供述内容とおおむね一致している。なお,被告は,原告母のミャウンミャ市における活動や原告母が誓約書に署名させられたことなどについて,原告母は本件不認定処分(母)の異議申立後に初めて供述していることから信用できないと主張するが,本件不認定処分(母)に係る難民認定申請書(乙50)及び難民調査官作成の各供述調書(乙51から53まで)に上記各事実について記載されていないとしても,直ちに上記各事実に係る原告母の供述の信用性が損なわれるものではない。

 以上によれば,原告母の供述の信用性は高いというベきであって,被告の上記主張は採用できない。

 

 

 (イ) 被告は,原告母の日本における活動等について,原告母が積極的に民主化活動をするようになったのは平成18年以降であり,それまでは積極的に関わっていたものではない旨主張するところ,確かに,難民認定手続等における原告母の供述の中には,被告の主張に沿うものもある。しかしながら,難民認定手続においても,原告母は,同10年当時は,帰国したいという気持ちもあって,演説会やイベント等では主に後方支援を行い,また,写真に写らないようにデモに参加していた旨の供述もしており(乙37,38),あまり目立たないように注意していたことがうかがわれるものの,同供述からもBWU日本支部が発足した当初からその活動に深く関与していたことをうかがわれ,本人尋問における原告母の供述内容等や前記認定事実と矛盾するものではない。

 

  (3) 原告父の個別事情について

 ア ミャンマーにおける活動等について

 (ア) 原告父は,昭和23年9月*日,ミャンマーのヤンゴン市において出生した。原告父には,父親並びに弟2人及び妹4人がおり,以前,弟1人と妹1人が日本で生活していたが,現在は,父親並びに弟及び妹は全員ヤンゴン市において生活している。(甲106,乙18,20,27,前提事実)

 (イ) 原告父は,昭和48年,ヤンゴン大学に入学した。同49年ころ,同大学近くの石油工場に勤務する労働者が,給与の引下げに反対して,ストライキを起こし,デモを行った際,原告父は,クラスメートを誘って同デモに参加した。また,原告父は,同年12月に起きたウー・タント事件においても,同様にクラスメートを誘ってデモに参加し,ビラを配るなどした。原告父は,ウー・タント事件の後,警察から同行を求められ,事情を聞かれるなどしたが,逮捕はされなかった。(乙18,19,26,27,原告父本人)

 (ウ) 原告父は,昭和53年にヤンゴン大学を卒業し,しばらくヤンゴン市内において父親が経営するチョーク工場の仕事を手伝っていたが,同57年ころからマグウエーの国営石油工場に勤務するようになった。原告父は,同62年ころ,反政府的な内容を記載したビラを職場の知人に配ったところ,工場長から呼び出され,処罰する旨告げられたことから,自ら同工場を退職した。その後,原告父は,ヤンゴン市に戻って民主化運動のためのグループを作り,同63年8月には,連日デモに参加して参加者を前に演説をするなどした。

 原告父は,軍事政権誕生後,警察署に呼び出され,手錠を掛けられた状態で取調べを受けた。原告父は,警察からどのような組織に所属しているのか,関係者の名前を教えろなどと質問され,そのような取調べは1回では終わらず,1週間の間に3回呼び出された。(甲106,122,乙8,18から20まで,26,原告父本人)

 (エ) 原告父は,平成2年10月ころ,軍事政権を批判し,民主主義が必要であり,軍事独裁者たちを打倒しなければならないという趣旨の詩を作成し,原告父の実名と詩を記載した文書を数名の知人に配布した。原告父は,同年11月ころ,Cという男から,上記文書を配ったことを地区評議会に報告するなどと告げられ,また,親しくしていた地区評議会の幹部から,Cから原告父の上記行為の報告を受けている,Cは他の者にも報告するかもしれないなどと聞かされた。原告父から相談を受けた母親は,原告父に外国に逃げるよう勧め,ブローカーに5000チャットを支払って原告父のために正規の旅券(ただし,生年月日に誤りがある。)を入手し,また,出国を容易にするため空港関係者に6万チャットを支払うなどした。原告父は,同3年3月ころ,上記旅券を利用して,ヤンゴン市からタイに出国した。(甲106,乙7,8,18,19,20,26,27,原告父本人)

 (オ) 原告父は,タイに入国後,ビザの延長のためマレーシアとタイとの間を行き来し,また,マレーシアの工場で働くなどしていたが,目立った反政府活動をすることはなかった。原告父は,生活資金がなくなりそうになって日本に行くことを決意し,ブローカーに40万チャットを支払い,自己の正規の旅券と引き替えに他人名義の旅券を入手し,平成4年2月8日,他人名義の旅券を利用して日本に上陸した。(甲106,乙4,8,18から20まで,26,27,原告父本人,前提事実)

 イ 日本における活動等について

 (ア) 本邦に上陸した原告父は,東京都内に居住し,飲食店で働くなどし,月14万円程度の収入を得ていた。原告父のミャンマーの家族は,チョーク工場を経営していることなどから,金銭には困っていないことがうかがわれ,原告父が,ミャンマーの家族に送金した事実は認められない。

 原告父は,来日後,ミャンマーの民主化運動の活動家のために寄付をしたり,集会に参加するなどしていたが,しばらくの間,団体に所属することはなく,目立った活動をすることはなかった。(甲106,乙18,20,原告父本人,弁論の全趣旨)

 (イ) 原告父は,平成9年ころ,パガンで働いていた原告母と知り合い,やがて原告母と交際するようになって,原告母の活動を支援するようになり,原告父自身もデモに参加するなどするようになった。

 原告父母は,平成10年1月18日,東京原宿の中華レストランにおいて,ミャンマーの方式により婚姻した。原告父は,婚姻後も原告母の活動を支援し,同年7月19日には,アウンサン将軍の慰霊祭に併せて,自宅で集会を開き,同15年のディペイン事件後は,民主化運動のデモに参加するなどした。(甲105,106,乙18,20,26,39,50,原告母本人,原告父本人,前提事実)

 (ウ) 原告父は,平成18年3月,DFB日本支部に加入し,同年4月には,政治活動部門の副責任者になり,同月27日(革命の日)に実施された東京五反田からミャンマー大使館までのデモ,同年5月16日に実施されたカレン族への弾圧に反対するミャンマー大使館前のデモに参加するほか,本件不認定処分(父)の前後を通じ,多くのデモ等に参加している。また,同年4月26日に,東京都お茶の水にある日本ビルマ事務所で,在日の18の民主化組織,ビルマ連邦国民暫定政府及びビルマ連邦国民評議会が共催する講演会(BURMA THE WAY FORWARD)が開かれ,原告父は,DFB日本支部を代表して,同講演会に実行委員として関与した。さらに,同年7月30日に行われた米国に在住するミャンマー人ジャーナリストであるチエモンウタンの講演会の実行委員となり,同年6月12日に逮捕されるまで講演会の準備をするなどした。DFB日本支部のホームページには,原告父の写真が名前付きで掲載されており,原告父が写っているDFB日本支部主催のデモの写真も,ホームページ上に掲載されている。

 なお,本件不認定処分(父)後の事情であるが,原告父は,平成19年以降も多数のデモに参加し,DFB日本支部を代表して演説をするなどの活動を行い,同20年には,日本支部の第一副責任者となり,5人の執行委員から構成される執行委員会のメンバーとなった。さらに,原告父は,同21年8月には,アウンサンスーチーへの実刑判決に対するミャンマー大使館前での抗議行動に参加し,朝日新聞及びジャパンタイムズに原告父の写真が掲載された。(甲35から39まで,56,57,62から72,106,122,124,乙19,26,原告父本人)

 

 

 ウ 事実認定の補足説明

 被告は,原告父のミャンマーにおける活動等については,原告らの主張を裏付ける客観的な証拠がなく,原告父の供述も信用できない旨主張する。

 しかし,前記(2)ウ(ア)のとおり,ミャンマーにおける反政府活動の内容等について,これを裏付ける客観的な証拠がないというだけで,直ちに本人の供述の信用性を否定するのは相当ではない。そして,この点に関する原告父の供述内容は具体的であり,前記(1)のミャンマーの一般情勢等とも整合するものであって,特に不合理な点は見当たらない。また,原告父は,難民認定申請の当初から,政府を批判する内容の文書を知人に配り,そのことをCから地区の責任者に告げられたなど,原告父の本人尋問における供述内容及び陳述内容(甲106)とほぼ同趣旨の供述をしており,一部の記憶違いや説明不足が原因を思われる不一致を除けば,供述内容はほぼ一貫している。

 以上によれば,原告父の供述の信用性は高いというべきであって,被告の上記主張は採用できない。

 

  (4) 原告子の個別事情について

 ア 原告子は,平成12年7月*日,原告父母の子として,東京都において出生した。(前提事実)

 イ 原告子は,東京都内の保育園に通い,平成19年4月に東京都豊島区立Z小学校に入学した。原告子は,現在,同小学校3年生であり,本件裁決(子)時には同小学校1年生であった。原告子は,ミャンマーに帰国したことはなく,原告父母の話すミャンマー語を多少理解しているものの,自らは日本語で会話している。(甲105から108まで,乙39,70)

 

 

 

 2 争点(1)(本件各不認定処分の適法性(難民該当性))について

  (1) 難民の意義について

 ア 入管法61条の2第1項は,「法務大臣は,本邦にある外国人から法務省令で定める手続により申請があつたときは,その提出した資料に基づき,その者が難民である旨の認定…(略)…を行うことができる。」と規定している。そして,入管法2条3号の2は,入管法における「難民」の意義について,難民条約1条の規定又は難民の地位に関する議定書(以下「難民議定書」という。)1条の規定により難民条約の適用を受ける難民をいうものと規定している。

 イ 難民条約1条A(2)は,「1951年1月1日前に生じた事件の結果として,かつ,人種,宗教,国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために,国籍国の外にいる者であつて,その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの及びこれらの事件の結果として常居所を有していた国の外にいる無国籍者であつて,当該常居所を有していた国に帰ることができないもの又はそのような恐怖を有するために当該常居所を有していた国に帰ることを望まないもの」は,難民条約の適用上,「難民」という旨規定している。

 ウ 難民議定書1条2は,難民議定書の適用上,「難民」とは,難民条約1条A(2)の規定にある「1951年1月1日前に生じた事件の結果として,かつ,」及び「これらの事件の結果として」という文言が除かれているものとみなした場合に同条の定義に該当するすべての者をいう旨規定している。

 エ したがって,入管法にいう「難民」とは,入管法2条3号の2,難民条約1条A(2)及び難民議定書1条2を合わせ読むと,人種,宗教,国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために,国籍国の外にいる者であって,その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないものをいうこととなる。そして,上記の「迫害」とは,通常人において受忍し得ない苦痛をもたらす攻撃ないし圧迫であって,生命又は身体の自由の侵害又は抑圧を意味するものと解するのが相当であり,また,上記にいう「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する」というためには,当該人が迫害を受けるおそれがあるという恐怖を抱いているという主観的事情のほかに,通常人が当該人の立場に置かれた場合にも迫害の恐怖を抱くような客観的事情が存在していることが必要であると解するのが相当である。

  (2) 原告母の難民該当性について

 ア 前記認定事実によると,原告母は,①昭和63年8月ころ,ヤンゴン大学に在学中,いわゆる8888事件のデモに参加し,同月末からは,ミャウンミャ市内の「キャンプ」に参加するなどしたこと,②平成3年から同4年にかけて,ヤンゴン大学内で友人と共にグループを作り,民主化運動を続け,デモを行っていたところ,警察署に連行され,今後政治活動を行わないという内容の誓約書に署名したこと,③その後,マンダレーに逃れ,日本で民主化運動をしていたAを頼って日本に行くことを決意し,平成5年初めころ,ブローカーを通じて旅券を取得し,タイを経由して来日したこと,④本邦上陸後,Aを頼り,同人が経営するパガンで働きながら,ミャンマー人の活動家と交流するようになり,また,Aの活動を手伝うなどしたこと,⑤平成10年4月ころ,BWU日本支部の結成に関与し,発足後,今日に至るまで同日本支部のメンバーとして活動していること,⑥平成18年3月5日,DFB日本支部に加入し,以後,同日本支部が主催するデモに参加しており,同日本支部のホームページ上には,原告母の写真が名前付きで掲載され,原告母がデモに参加した写真も掲載されていることなどが認められる。

 このように,原告母は,ミャンマーを出国する以前から,デモに参加するなどの反政府活動をし,そのために1度は身柄を拘束され,今後政治活動を行わないという内容の誓約書に署名するなどしていることから,反政府活動を行う人物であるとしてミャンマー政府に個別に把握されている可能性がある。さらに,原告母は,本邦上陸後も,ミャンマー人の民主活動家であるA経営のパガンで働きながら,同人の活動を手伝い,BWU日本支部の結成に関与し,また,DFB日本支部に加入するなどし,以後,出産及び育児等のため一時的に活動をしていなかった時期を除けば,BWU日本支部のメンバーとしてデモや講演会活動をするなど,一貫して民主化運動を行っていたものである。そして,原告母の写真及び氏名は,DFB日本支部のホームページ上にも掲載され,原告母がデモに参加している写真等も同ホームページに掲載されているのであるから,このような事情は,ミャンマー政府においても十分把握することが可能な状況にあったということができる。

 イ これに対し,被告は,原告母のミャンマーにおける活動は,多数の参加者の1人としてデモ等に参加したにすぎず,また,日本における活動についても,原告母がBWU日本支部に加入したのは,来日から約5年後のことであって,原告子の出産後,活動に参加していない時期があること,DFB日本支部は小規模な組織であることから,前記のような原告母の活動を理由に,原告母がミャンマー政府から反政府活動家と認識されているとは考え難い旨主張する。

 被告の上記主張は,原告母の活動を個々にとらえて,それら個々の活動はミャンマー政府が関心を抱くほどのものではない旨主張するものとも理解し得るが,前記1(1)のとおり,ミャンマーの軍事政権は,多くの国民,とりわけ政治的に活動的な人物の移動及び活動を綿密に監視しているともされており,また,ミャンマー政府は,日本に限らずおよそミャンマー国外で民主化運動や反政府活動に参加した者について,その氏名や活動内容の実態について,かなり正確に把握しているとも言われている(乙81の4頁)のであるから,原告母の活動についても,個々的にとらえることは相当ではなく,一連の活動を全体的に見て,迫害のおそれがあるか否かを検討すべきである。

 

また,BWU日本支部及びDFB日本支部は,いずれも必ずしも大規模な組織とはいえないものの,前者は,日本における有力な活動家であるAを中心として,平成10年から現在まで活動を続けている組織であり,また,後者は,全ビルマ学生連盟の総書記長を務めた著名な活動家であるモーティーズンが代表を務めている組織の日本支部である(甲36,40,41参照)。したがって,組織のメンバーが少なく,また,仮に活動実績が少ないとしても,ミャンマー政府が上記各団体の活動に関心を持っていないとは到底考え難い。さらに,原告母は,これらの団体に所属し,単なる参加者の1人としてその活動に加わっているというのではなく,特に,BWU日本支部においては,設立当初から一貫してメンバーとして活動に関与し,近時は,代表であるAに次ぐ重要なメンバーとして活動しているというのであって,来日後,反政府活動家として著名なAを頼り,同人が経営するレストランで稼働し,以後,出産後の数年間を除いてほぼ一貫して同人の活動を手伝ってきているという事情をも併せ考えれば,原告母の活動が当初は後方からの支援活動にすぎなかったとしても,原告母の活動を全体的にとらえた場合,本件不認定処分の時点において,ミャンマー政府が原告母を反政府活動家として認識していないということはおよそ考え難いというべきである。

 したがって,被告の上記主張は,採用することができない。

 

 

 なお,被告は,原告母の本邦への入国が不法就労目的である旨も主張するが,前記認定事実に照らせば,原告母は,民主化運動を続けるためにAを頼って本邦に上陸したことが認められるから,上記被告の主張は採用できない。

 ウ また,被告は,原告母が,正規の手続で自己名義の旅券を取得して正規に出国が許可され,その後,旅券の更新を受けていること,ミャンマー出国後相当長期間にわたり,日本政府に対して保護を求めたり難民認定申請に及んでいないことから,ミャンマー政府が,原告母を迫害の対象としていなかったことが強く推認される旨主張する。

 この点,確かに,正規の手続で自己名義の旅券を取得したことや旅券の更新を受けたことは,難民該当性を否定する方向に働く事情の1つとはなり得るものであるが,前示のとおり,原告母のミャンマー及び我が国における活動を全体的にみて難民該当性が認められる本件については,そのことから直ちに難民該当性を否定することは相当ではないというべきである。

 

 

また,原告母は,ミャンマー出国後,長期間にわたり,日本政府に対し,保護を求めたり難民認定申請に及んでいないことが認められるが,その理由について,原告母は,来日当初はミャンマーに帰国したいとの気持ちがあり申請をためらっていたこと,ディペイン事件をきっかけに申請をしようと考え,制度の概要を知り,旅券の更新を受けるなどしたが,外国人登録法に基づく登録をしておらず,難民認定申請に必要な外国人登録証明書(出入国管理及び難民認定法施行規則55条2項2号参照)を所持していなかったことなどから,難民認定申請をしなかったなどと主張し,また,その旨供述しており(乙37,39,原告母本人),その内容には首肯できる点がある。また,原告母は,難民認定申請をしても,認定されない場合のことを考えると怖いという気持ちもあり,ミャンマーに送還される危険を冒して申請する勇気がなかったなどとも陳述するところ(甲105),我が国において,平成16年当時,難民認定がされた例は,異議申立ての結果認められたものを含めて年間十数件にとどまっており,以後,平成20年に至るまで,年間,申請者の数パーセントから11パーセント程度しか難民認定がされていないという状況(甲147の1及び2)に照らせば,原告母の上記陳述は十分に理解できるものであり,来日後,長期間にわたり難民認定申請をしなかったことを殊更申請者の不利益に考慮することは,本来難民として認定すべき者を認定しないという不相当な結果を生じさせることになりかねず,必ずしも相当であるとはいえないというべきである。

 以上によれば,被告の上記主張は採用できない。

 

 

 

 

 

  (3) 原告父の難民該当性について

 ア 前記認定事実によると,原告父は,①昭和49年ころ,ヤンゴン大学に在学中,大学近くの工場におけるデモに参加し,また,ウー・タント事件のデモに参加するなどし,その後,警察から事情を聞かれるなどしたこと,②大学卒業後,国営石油工場に勤務したが,反政府的な内容のビラを知人に配布したことを契機に退職し,その後,ヤンゴン市に戻り,民主化運動を行い,同63年8月のデモに参加したこと,③その後,警察から呼び出され,手錠を掛けられながら取調べを受けたこと,④平成2年10月ころ,反政府的な詩を作成し,実名と詩を記載したビラを知人に配ったところ,これを地区評議会のメンバーに報告した者があったことから,身の危険を感じ,ブローカーを通じて旅券を入手してタイに出国し,さらに,偽造旅券を入手して日本に出国したこと,⑤来日後,しばらくは民主化運動をしていなかったものの,同9年ころ原告母と知り合い,原告母の活動を支援したり,デモに参加したりするようになったこと,⑥同18年3月には,DFB日本支部に加入し,その活動に参加するほか,同年4月以降は,政治活動部門の副責任者として講演会を企画し,DFB日本支部の代表として各種集会に出席するなどしており,同日本支部のホームページ上には,原告父の写真が名前付きで掲載され,原告父がデモに参加した写真も掲載されていることなどが認められる。

 このように,原告父は,ミャンマーを出国する以前から,デモに参加するなどの反政府活動をし,そのために警察から取調べを受けるなどしており,また,実名を記載した反政府的な内容の書面を配り,そのことが体制側の組織のメンバーに報告されるなどしていることから,反政府活動を行う人物であるとしてミャンマー政府に個別に把握されている可能性がある。さらに,原告父は,本邦に上陸し,原告母と知り合った後は,原告母の活動を手伝い,また,DFB日本支部に加入し,その政治活動部門の副責任者として活動するなどしている上,原告父の写真及び氏名は,同日本支部のホームページ上にも掲載され,原告父がデモに参加している写真も同ホームページに掲載されているのであるから,このような事情は,ミャンマー政府においても十分把握することが可能な状況にあったということができる。

 イ これに対し,被告は,原告父のミャンマーにおける活動は,多数の参加者の1人としてデモ等に参加したにすぎず,反政府的な内容の書面については,少数の者に配ったにすぎないこと,また,日本における活動についても,本邦上陸後,長期間にわたり,活動をしていなかった時期がある上,DFB日本支部は小規模な組織にすぎないことに照らせば,前記のような原告父の活動を理由に,原告父がミャンマー政府から反政府活動家と認識されているとは考え難いなどと主張する。

 この点,確かに,ミャンマーにおける原告父の活動は,当時のミャンマーの情勢に照らせば,必ずしも特筆すべきものではなかったということもでき,また,DFB日本支部自体は,必ずしも大規模な組織とはいえず,これらの活動を個々にとらえた場合には,被告の主張には首肯できる点がないともいえない。しかしながら,前記(2)イのとおり,原告父についても一連の活動を全体的にみて,迫害のおそれがあるか否かを検討すべきであるところ,原告父は,来日後,民主化運動を積極的には行っていなかった期間があるものの,原告母と知り合った後は,原告母の活動を手伝うなどして民主化運動に関与していたものであり,しかも,平成18年3月以降は,DFB日本支部の中核的なメンバーとして活動していたのであるから,以上の諸事情に照らせば,本件不認定処分(父)の当時,ミャンマー政府においては,原告父についても,配偶者である原告母と併せて反政府活動家として認識していたものと考えられるというべきである。したがって,被告の上記主張は,採用できない。

 

 

 ウ また,被告は,原告父が,正規の手続で自己名義の旅券を取得して正規に出国が許可され,その後,旅券の更新を受けていること,ミャンマー出国後相当長期間にわたり,保護を求めたり難民認定申請に及んでいないことから,ミャンマー政府が,原告父を迫害の対象としていなかったことが強く推認される旨主張するが,この点については,原告父についても,前記(2)ウのとおり原告母について検討したことが当てはまるというべきであって,いずれも採用できない。

 さらに,被告は,原告父の本邦への入国が不法就労目的である旨主張するところ,前記アで判示したところに照らすと,仮に,原告父の来日に不法就労の目的があったとしても,そのことを理由に原告父の難民該当性が否定されるものではないというべきである。

 

  (4) 以上によれば,本件各不認定処分当時,原告父母は,いずれも,ミャンマー及び我が国において反政府活動をしていたことを理由として,ミャンマー政府から迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために,国籍国の外にいる者であると認めるのが相当である。

 よって,原告父母には難民該当性を認めることができるから,本件各不認定処分はいずれも違法であるというべきである。したがって,本件各不認定処分は,いずれも取消しを免れない。

 

 

 

 

 

 

 3 争点(2)(本件各不許可処分の有効性)について

  (1) 入管法61条の2の2第2項は,法務大臣は,難民認定申請をした在留資格未取得外国人について,難民の認定をしない旨の処分をするとき,又は難民の認定をする場合であって,定住者の在留資格の取得を許可しないときは,当該在留資格未取得外国人の在留を特別に許可すべき事情があるか否かを審査し,当該事情があると認めるときは,その在留を特別に許可することができる旨規定している。そして,上記在留特別許可をするか否かの判断は,法務大臣等の広範な裁量にゆだねられていると解するべきであるが,当該在留資格未取得外国人が入管法上の難民に当たるか否かは,法務大臣等が在留を特別に許可するか否かについて判断する場合に当然に考慮すべき極めて重要な考慮要素であるというべきである。

 

 ところが,本件においては,東京入管局長は,原告父母が入管法上の難民であることを考慮せずに本件各不許可処分を行ったことが明らかである。そうすると,本件各不許可処分は,原告父母が入管法上の難民に該当するという当然に考慮すべき極めて重要な要素を一切考慮せずに行われたものといわざるを得ない。したがって,本件各不許可処分は,いずれも東京入管局長がその裁量権の範囲を逸脱してした違法な処分というべきである。

 

 

  (2) ところで,行政処分が法定の処分要件を欠き違法である場合に,当該処分の取消しを求める司法上の救済手続においては,法定の出訴期間の遵守が要求され,その所定の期間を経過した後は,原則としてもはや当該処分の瑕疵を理由としてその効力を争うことはできないものとされているが,その瑕疵が重大かつ明白で当該処分が無効と評価される場合には,このような出訴期間による制限は課されないものとされている。

 

ここで,無効原因として瑕疵の明白性が要求される理由は,重大な瑕疵による処分によって侵害された国民の権利保護の要請と,これに対するものとしての法的安全及び第三者の信頼保護(換言すれば,処分を無効とすることによって侵害される既得の権利の保護)の要請との調和を図る必要性にあるということができる。

 

 

そうであるとすると,一般に,入管法61条の2の2第2項による在留特別許可をしない旨の処分が当該外国人に対してのみ効力を有するもので,

 

当該処分の存在を信頼する第三者の保護を考慮する必要が乏しいこと等を考慮すれば,

 

当該処分の瑕疵が入管法の根幹についてのそれであって,出入国管理行政の安定とその円滑な運営の要請を考慮してもなお,

 

出訴期間の経過による不可争的効果の発生を理由として当該外国人に処分による重大な不利益を甘受させることが著しく不当と認められるような例外的な事情のある場合には,前記の過誤による瑕疵が必ずしも明白なものでなくても,当該処分は当然無効と解するのが相当である(最高裁昭和42年(行ツ)第57号同48年4月26日第一小法廷判決・民集27巻3号629頁参照)。

 

 

 これを本件についてみると,本件各不許可処分は,難民である原告父母について入管法61条の2の2第2項による在留特別許可をしないというものであり,

 

その結果,原告父母を,これを迫害するおそれのあるミャンマーに送還することとなるものであるが,

 

我が国が難民条約及び「拷問及び他の残虐な,非人道的な又は品位を傷つける取扱い又は刑罰に関する条約」(以下「拷問等禁止条約」という。)を批准し,

 

難民条約33条1項を前提に入管法53条3項が規定されていること,

 

入管法上の難民の意義,性質等に照らせば,難民である外国人を,これを迫害するおそれのある国に向けて送還してはならないことは,入管法上明らかであるから,

 

本件各不許可処分は,難民である原告父母について入管法61条の2の2第2項による在留特別許可をせず,その結果,原告父母を,これを迫害するおそれのある国に向けて送還しようとする点において,入管法の根幹についての重大な過誤というベき瑕疵を有するものといわなければならない。

 

 

 そうすると,本件各不許可処分には,出入国管理行政の安定とその円滑な運営の要請を考慮してもなお,出訴期間の経過による不可争的効果の発生を理由として,難民である原告父母について入管法61条の2の2第2項による在留特別許可をせず,その結果,原告父母に迫害を受けるおそれのある国に送還されるという不利益を甘受させることが,著しく不当と認められるような例外的な事情があるというべきである。したがって,前記の過誤による瑕疵が明白なものでなくても,本件各不許可処分は当然無効と解するのが相当である。

  (3) 以上によれば,本件各不許可処分は,いずれも無効であるというべきである。

 

 

 

 

 4 争点(3)(本件裁決(父母)の適法性及び有効性)について

  (1) 入管法は,法務大臣が,入管法49条1項に基づく異議の申出に対する裁決をするに当たって,異議の申出に理由がないと認める場合でも在留特別許可をすることができるとする(入管法50条1項)一方,

 

難民認定申請をした在留資格未取得外国人に係る退去強制手続については,同項を適用しないこととしている(入管法61条の2の6第4項)。

 

このように,入管法が難民認定申請をした在留資格未取得外国人に係る退去強制手続について入管法50条1項の適用を除外したのは,

 

難民認定申請をした在留資格未取得外国人については,入管法61条の2の2において,法務大臣が難民認定手続の中で本邦への在留の許否について判断することとしたことから,

 

法務大臣が退去強制手続の中で入管法49条1項に基づく異議の申出に対する裁決をするに当たっては,異議を申し出た者が退去強制対象者に該当するかどうかという点に係る特別審理官の判定に対する異議の申出に理由があるかどうかを判断すれば足りることとしたものと解するのが,その文理解釈上相当である。

  

 

(2) これを本件についてみると,前記前提事実のとおり,原告父母は入管法61条の2の6第4項所定の難民認定申請をした在留資格未取得外国人であるところ,

 

前示のとおり,原告父母が難民であることは認められるものの,

 

原告父母が難民であることは,原告父母が退去強制対象者に該当するかどうかという点に係る特別審理官の判定に対する異議の申出に理由がない旨の本件裁決の違法事由であるということはできず,

 

他に本件裁決(父母)における裁決固有の瑕疵(行政事件訴訟法10条2項参照)に係る主張はないから,結局,本件裁決(父母)はいずれも適法であるといわざるを得ない。

  

(3) したがって,本件裁決(父母)の無効確認又は取消しを求める原告父母の請求は,いずれも理由がない。

 

 

 5 争点(4)(本件裁決(子)の適法性)について

 

  (1) 入管法50条1項4号は,入管法49条1項所定の異議の申出を受理したときにおける同条3項所定の裁決に当たって,異議の申出には理由がないと認める場合でも,法務大臣は在留を特別に許可することができるとし,入管法50条3項は,上記の許可をもって異議の申出には理由がある旨の裁決とみなす旨定めているところ,上記在留特別許可をするか否かの判断は,法務大臣の広範な裁量にゆだねられている。しかしながら,上記法務大臣の裁量権の内容は全く無制約のものではなく,その判断が全く事実の基礎を欠き,又は社会通念上著しく妥当性を欠くことが明らかである場合には,法務大臣が裁量権の範囲を逸脱し,又は濫用したものとして,違法になるものと解される。そして,このことは,法務大臣から権限の委任を受けた地方入国管理局長についても同様に当てはまるところというべきである。

 

  (2) 前提事実のとおり,原告子は,入管法24条7号所定の退去強制事由に該当するから,法律上当然に退去強制されるべき外国人に当たることが明らかである。

 

しかしながら,前示のとおり,原告子の親権者である原告父母は,いずれも難民に該当するというべきであり,

 

原告父母について,これを迫害するおそれのあるミャンマーに送還することは許されないところ,

 

原告子は,本件裁決(子)時において,いまだ7歳,小学校1年生であった者であり,日本において出生し,原告父母の庇護の下,日本において養育されていたのであって,

 

前記のとおり,原告父母の親族がミャンマーで生活していることを考慮しても,原告子のみを原告父母から引き離してミャンマーに送還することは,原告子の健全な生育を阻害するおそれがあり,子の福祉の観点からも,人道的な見地からも明らかに不相当であるというべきである。

 

 

 そうすると,本件裁決(子)は,原告父母が入管法上の難民に該当し,ミャンマーに送還することができないという当然に考慮すべき極めて重要な要素を一切考慮せずに行われたものといわざるを得ない。

 

したがって,本件裁決(子)は,東京入管局長がその裁量権の範囲を逸脱してした違法な処分というべきである。

 

 

 6 争点(5)(本件各退令処分の適法性及び有効性)について

 

  (1) 原告父母について

 

 ア 主任審査官は,法務大臣から異議の申出が理由がないと裁決した旨の通知を受けたときは,速やかに当該外国人に対し,その旨を知らせるとともに,退去強制令書を発付しなければならないが(入管法49条6項),

 

当該外国人が難民条約に定める難民であるときは,当該外国人を,これを迫害するおそれのある国に向けて送還することはできない(入管法53条3項,難民条約33条1項,拷問等禁止条約3条)。

 

したがって,当該外国人が難民であるにもかかわらず,その者を,これを迫害するおそれのある国に向けて送還する退去強制令書発付処分は違法であるというべきである。

 

 イ これを本件についてみると,前示のとおり,原告父母は難民であるということができるから,原告父母を,これを迫害するおそれのあるミャンマーへ向けて送還する本件退令処分(父母)は違法であるというべきであり,本件退令処分(母)については取消しを免れない。

 

 また,本件退令処分(父)については,その有効性が問題となるが,同処分は,原告父を迫害のおそれのあるミャンマーに送還することになるものであり,前記3(2)のとおり,入管法の根幹についての重大な過誤というべき瑕疵を有するものといわざるを得ない。したがって,その瑕疵が明白なものでなくとも,本件退令処分(父)は当然無効と解するのが相当である。

 

  (2) 原告子について

 本件裁決(子)が違法であることは前記5のとおりであるから,これを前提とする本件退令処分(子)も違法であり,取り消されるべきものである。

 

 

 7 結論

 

 以上によれば,原告らの請求は,本件各不認定処分,本件退令処分(母),本件退令処分(子)及び本件裁決(子)の各取消し並びに本件退令処分(父)及び本件各不許可処分の無効確認を求める限度において理由があるからこれらを認容し,原告父母のその余の請求は理由がないから棄却することとし,訴訟費用の負担について行政事件訴訟法7条,民訴法61条,64条ただし書を適用して,主文のとおり判決する。

 

 (裁判長裁判官・杉原則彦,裁判官・波多江真史,裁判官・家原尚秀)