譲渡所得税負担の認識がなかったとする錯誤

 

 

 

 

 

 東京高等裁判所判決/昭和58年(ネ)第2468号、判決 昭和60年9月18日、 家庭裁判月報38巻11号94頁 について検討します。

 

 

 

 

 

【判示事項】 夫から妻に対し離婚に伴う財産分与として不動産の譲渡を約した調停条項につき、夫に譲渡所得税負担の認識がなかったとする錯誤による無効の主張が排斥された事例 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

主   文

 

   本件控訴を棄却する。

   控訴費用は控訴人の負担とする。

 

        

 

 

 

 

 

事   実

 

 

 

 

第一 当事者の求めた裁判

  

 

一 控訴人

   

1 原判決を取り消す。

   

2 控訴人と被控訴人どの間の東京家庭裁判所昭和五六年(家イ)第一二六八号夫婦関係調整事件につき昭和五六年一二月二五日成立した調停調書中調停条項第二ないし第一六項はいすれも無効であることを確認する。

   

3 訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

  

 

二 被控訴人

   

主文第一項同旨

 

 

 

第二 当事者の主張

  

 原判決書二枚目表四行目中「五七年」を「五六年」に改め、同七行目中「協議」を削り、同三枚目裏四行目中「(四)」を「(三)」に改め、同六枚目表五行目中「目録」の下に「(二)の」を加え、次につけ加えるほか、原判決事実摘示と同一であるから、ここにこれを引用する。

 

 

 

(控訴人)

  

 

一 控訴人が本件調停条項を履行した場合には、三二三一万五六二八円の譲渡所得税が課せられ、そのほか特別都区民税九六九万四六八八円が課せられることになり、控訴人は合計四二〇一万〇三一六円の租税債務を負担しなければならない。

  

 控訴人は、本件調停条項第七項記載の借入金債務のみを負担することにより、原判決添付別紙物件目録(一)記載一ないし三の土地建物を取得することを内容とする調停が成立し、これにより控訴人の老後の生活が保障されるものと考えていた。

 

 ところが、右のような多額の租税債務を負担することになると、控訴人は右の土地建物以外には全く資産がなく、しかも右土地建物は表通りから奥まつた所にあり、公道に通ずる私道は被控訴人の所有地となつているため、これを売却してもその代価はせいぜい三〇〇〇万円位で、諸費用税金を差引くと手取り額は一五〇〇万円位となり、これを右租税債務の支払に充てても、残金二七〇〇万円余の債務はなお残存することになる。

  

 

 このように、本件調停条項に合意することにより、控訴人は、右土地建物を取得するどころか、これを売却して所有権を失つてもなお二七〇〇万円余の租税債務を負担することになるわけであり、このような結果は控訴人の全く予期していなかつたことであつて、本件調停はその要素に錯誤があり無効である。

  

 

二 控訴人は、本件調停において、控訴人が一応相続した形になつている不動産等は被控訴人と離婚することになれば被控訴人に返還しなければならないものであるという法律の錯誤に陥つており、その錯誤の下に、老後の生活の資を確保するため、恩恵的に被控訴人から右土地建物の譲渡及び原判決添付別紙物件目録(三)記載の土地の賃貸を受けるものであるという動機の錯誤に陥り、本件調停に応じたものであり、まして、控訴人に対し譲渡所得税が課せられるという認識は全くなかつたのであつて、このことは本件調停前及び調停係属中の経緯から明らかであるから、右動機は表示されていたものである。

  

 

三 右の事実関係の下においては、本件調停は公序良俗に反し無効である。

 

(被控訴人)

  

 控訴人主張の課税額は不知。その余の主張は争う。本件調停による財産分与に対し譲渡所得税が課せられるということは、本件調停の当然の前提となつていた。仮に控訴人主張の錯誤があつたとしても、それは動機の錯誤であり、右動機は表示されていなかつた。

 

第三 証拠〈省略〉

 

        

 

 

 

 

 

理   由

 

  

 

一 本件調停において、控訴人がその所有する原判決添付別紙物件目録(二)記載一ないし九の物件の所有権(一ないし五の物件については共有持分)を被控訴人に移転し、これに対し被控訴人所有の同目録(一)記載一ないし三の物件の所有権(二の物件については共有持分)を取得したものであることは、当事者間に争いがない。

 

 そして、〈証拠〉によると、同目録(2)記載の物件は、同六の建物を控訴人が建築して控訴人名義で保存登記を経由していた以外は、すべて養父の甲野一郎の所有であつたものを、同人の死亡により(一ないし五の物件は更に養母の甲野ハルの死亡により)相続を原因として控訴人が所有権(一ないし五の物件は共有持分)を取得していたものであること、

 

 控訴人は、訴外乙野愛子との交際等を理由に被控訴人から離婚の調停の申立を受けたが、

 

 友人である訴外丙野二郎から、控訴人は養子であるから被控訴人と別れて家を出るのであれば被控訴人の親からもらつた財産は被控訴人に返すべきであるという趣旨の説明を受けたことがあること、

 

 本件調停において、控訴人は、前記養父ないし養母から相続により取得した物件を被控訴人に返すことを前提とし、前記目録(二)記載六の建物(第一〇〇荘)及び自己のタクシー業のための駐車場として五〇坪の土地を取得すること等を希望したが、

 

 右建物と被控訴人所有の同目録(一)記載三の建物(第二〇〇荘)とを交換することとして、

 

 同建物及びその敷地である同目録(一)記載一、二の土地を控訴人が取得し、

 

 また、駐車場として、控訴人から被控訴人に所有権を移転した同目録(二)記載五の土地のうち一七・六〇平方メートル(同目録(三)記載の物件、原判決添付別紙図面斜線部分)を改めて被控訴人から賃借することとしたこと、以上の事実が認められる。

  

 

 

二 控訴人は、被控訴人が訴外乙野愛子に対して今後一切何らの請求をしないことが本件調停の内容となつていたと主張するが、原審並びに当審における控訴人本人尋問の結果も右事実を認めるに十分でなく、ほかにこれを認めるに足りる証拠はない。

 

 

 なお、控訴人は、東京都世田谷区○○○六丁目一七三〇番三宅地四四平方メートルのうち同所一七三〇番一六の土地側二メートル巾の部分及び原判決添付別紙目録(二)記載一ないし五の土地に対する持分権の二分の一をも控訴人の取得分とする旨の調停が成立したものと考えていたと主張するが、

 

〈証拠〉によれば、右は、第二〇〇荘の敷地の北側に接する部分及び第二〇〇荘への通路部分であつて、控訴人は本件調停においてこれらの部分を取得することを希望しその旨表明していたが、結局相手方である被控訴人の受け入れるところとならず、双方の合意の結果として調停条項に記載されることなく終つたことが認められ、

 

右の希望を撤回することが他の調停条項を定める条件となつていたことを認めるに足る証拠もないのであつて、要するに、控訴人の希望が容れられず、その旨の合意が成立するに至らなかつたというにすぎず、これをもつて錯誤があつたということはできない。

  

 

三 控訴人は、本件調停による財産分与の基本財産はすべて被控訴人に帰属するものであるとの錯誤に陥つていたため、本件調停条項の定める内容の財産分与をすることに応じたものであると主張する。

 

しかし、控訴人が一郎、ハルの養子であり、養親の死亡により自己が相続により取得する財産があることをその身分関係から当然に知ることができたものと考えられるし、

 

しかも、本件調停条項第二項には、前記目録(二)記載一、二及び七ないし九の各土地が前記甲野一郎、同ハルの所有であつたものを同人らの死亡により控訴人が相続取得したものであることを確認した上、控訴人は右各土地を本件離婚に伴う財産分与として被控訴人に譲渡するものであることが、明確に記載されており(このことは当事者間に争いがない。)、この事実によれば右主張は理由がないものといわなければならない。

  

 

 もつとも、控訴人は、前記認定のように、被控訴人と離婚するのであれば養父母からもらつたものは被控訴人に返さなければならないとの趣旨の説明を受けたことがある。

 

 また、控訴人は、原審並びに当審において、武蔵野市の法律相談において、あるいは本件調停の際調停委員からも、同様の趣旨の説明を受けた旨供述するところ、

 

 右供述は、当然に返還しなければならない法律上の義務を負担すべきものとする点においてはにわかに措信し難いものであるが、

 

 一方、それに近い趣旨の説明がされたこともあり得ないことではないと考えられる。

 

 すなわち、控訴人は、被控訴人と結婚しその父母と養子縁組をしたからこそ前記各物件の所有権を取得したのであるから、被控訴人と離婚する場合には、しかも控訴人の女性関係が離婚の主たる原因であつて控訴人の側が有責配偶者であるとみられることからすれば、

 

 養家からもらつた財産は一応返上することを前提として離婚あるいはその調停に臨むのが情宜にかなつた対処の仕方であるという趣旨の説明がされたことはあり得ることといつてよい。

 

 前記丙野等のした説明も、右の趣旨以上に出るものではないと考えられる。

 

 そして、調停条項中に前記第二項のような条項が設けられていることも合わせ考えると、控訴人が、被控訴人との離婚によりその法的効果として前記各物件の所有権を失うことになるものと真実確信していたとはとうてい考えられず、控訴人自身も右と同趣旨において、すなわち、控訴人の置かれた立場上、右の各物件を被控訴人に一応返すことを前提として話合いをするのが情宜上望ましいとの判断に立つて本件調停に臨み、本件調停条項に合意したものであるとみるのが相当である。そうすると、この点に関し、控訴人には何ら錯誤がなかつたものというべきである。

  

 

 

四 控訴人は、譲渡所得税の負担があることをもつて錯誤の内容として主張する。

 

 しかし、離婚に伴う財産分与としての不動産の譲渡の場合にも譲渡所得税が課せられるべきことは確定した解釈である(最高裁昭和五〇年五月二七日第三小法廷判決・民集二九巻五号六四一頁参照)が、

 

 調停により財産分与が行われた場合に、かかる課税の負担につき特段の条項を設けなかつたからといつて、一般的に、このような法律上当然の負担を予期し得なかつたことを理由に錯誤の主張を許し調停を無効とすることは相当でない。

  

 

 もつとも、〈証拠〉によると、控訴人は、本件調停成立後の昭和五八年になつて所轄税務署職員から、本件調停による財産分与を基因として控訴人に課せられる税額は三二三一万五六二八円になるとの説明を受けたことが認められる。

 

 そこで、仮に控訴人がこのような高額の租税債務の負担を被ることがあらかじめ分つていれば、本件調停による財産分与につきこれと異つた条項が合意されたこともあり得たであろうと推測される。しかし、本件調停成立時において、控訴人が譲渡所得税を負担しないことを合意の動機として表示したことを認めるに足りる証拠はない。

  

 

 控訴人は、前記甲野一郎及び同ハルから相続により取得した物件及び控訴人名義の前記土地、建物のほかは特段の資産を有していなかつたことは、前記控訴人本人尋問の結果により認められるところである。

 

 したがつて、仮に本件調停により取得した物件を処分してその代金をもつて譲渡所得税の支払に充てるという方法を選んだ場合には、控訴人は本件調停により、被控訴人との離婚のほかには財産的には何ら得るところがない結果となることもあり得るところであり、かかる事態はそもそも本件調停において控訴人の予期した結果とは異つたものであるから、このような結果とならないことは調停による合意の動機として表示されていたものであると解さる余地があるとしても、

 

 

 本件財産分与によつて課される譲渡所得税の支払方法としては、控訴人が本件調停によつて取得する不動産を処分しその代金をもつて支払うというのが唯一の方法ではなく、右の不動産を担保として他から融資を受けて支払う(本件調停条項七項の根抵当権設定登記及び債務負担も必ずしもその障害となるものではない。)、あるいは納税の猶予を得て分割して支払う、更にはこれらの方法を併用する等の方法があるわけであり、本件において、控訴人がこれらの方法による租税債務弁済の可能性を一切否定して、およそ譲渡所得税を負担しないということを、本件調停による合意の動機として表示していたとみることは困難であるといわなければならない。

  以上のとおりであるから、この点に関する控訴人の錯誤の主張は採用することができない。

  

 

五 控訴人は、公序良俗違反を主張するが、如上の事実関係の下においては、本件調停による財産分与は控訴人にとつて厳しい内容のものであるとはいえ、未だ公序良俗に反するものとして無効とするほどのものではないと考えられる。

  

 

六 以上の次第で、控訴人の本訴請求は理由がないから棄却すべきであり、これと同旨の原判決は相当である。

  よつて、本件控訴を棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法九五条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

  

 

(裁判長裁判官舘 忠彦 裁判官新村正人 裁判官赤塚信雄)