本日は最終節 第87節 正当化に関する結語 から
道徳哲学の達成目標のひとつは、どのような合意も存在しないと思われるところに、合意のための可能な基礎を探し当てることにある。
道徳哲学が試みなければならないのは、ある既存の合意の範囲を拡大すること、さらに私たちの熟考のために識別力のある道徳の構想を構成することである。
正義は社会の制度がまずもって発揮すべき効能である。
〈公正としての正義〉は正義の至上性に関する所見を明確に表現し、そうした見方が有する一般的な傾向性を支持する。
そしてもちろん、〈公正としての正義〉はじゅうぶんに満足できる理論ではないとはいえ、私たちの道徳哲
学において傑出した地位を久しく占め続けている功利主義の見解に取って代わるべき理論を提供するものと考え
る。
善を最大化するという考えが、他に有力な対抗理論がないことによって君臨し続けるのを阻止すべく、実行
可能な体系的学説である正義の理論を提示しようと努めてきた。目的論的な理論への批判は、断片的になされる
だけなら決して実を結ぶことはない。明瞭さと体系性という〔功利主義と〕同じ効能を有しながらも、私たちの
道徳的感受性に関してより明敏な解釈をもたらす、もうひとつの種類の見解を構成することを試みなければなら
ない。
最後に、原初状態の仮説的な性質が次のような疑問を招き寄せる、すなわち、私たちが原初状態に何らかの興味・関心をー道徳的なものであれ、その他のものであれー覚えるべきなのはどうしてだろうか。
その答えを思い起こしてみるなら、こうなる。原初状態の記述において具現・統合されている条件は私たちが実際に受け入れているものなのだから、と。
あるいは(そこまでの理由が認められない場合)、適宜導入された類いの哲学上の諸考慮によって、それらの条件を受け入れるよう説得されうるのだから、と。
原初状態の各側面にはそれらをしっかり裏づけてくれる説明を与えることができる。
したがって、私たちが行なっていることは、お互いの振る舞いにおいて理にかなっているとーしかるべき熟考・反照を踏まえてーいつでも承認できる条件の全体を、ひとつの構想へと結合することである(第4節)。
ひとたび、この構想を把握したならば、いつでもこの要求された観点から社会的世界(実社会)を注視することができる。
〔そのために専門的な知識や技術は必要ではなく〕一定の方法で理性を働かせ、その上で到達した結論に従うだけでじゅうぶん足りる。
この観点は客観的でありながら私たちの自律を表現している(第78節)。
すべての人をひとつに合体・融合してしまうことなく、人びとを別個独立した存在として承認することを通じて、この観点は私たちが
ー時代をともにせず数多の世代に属している人びとの間でさえー
不偏・公平な立場に立つことを可能にする。
したがって、この視座から社会における私たちの境遇を眺めることは、それを永遠の相の下に了解する業に等しい。