米国の正義 Do the right thing ? (79)







本日は 第85節 自我の統一性 から








 

 正義の原理はおおむね明確な社会的な達成目標と制約を示している。



 ひとたび制度の一定の構造が実現されたならば、私たちは自由に(その制度編成が許容する範囲内で)自分らの

善を決定しかつ追求することが可能になる。




 こうした熟考、反照に照らすならば、目的論的な理論と契約説との問の対照は、以下のような直観的な仕方で

表現できるだろう。




 目的論的な理論は、善を限局的に(たとえば経験のおおよそ同質的な性質もしくは属性として)定義し、何らかの総計高にいたるまで最大化しうる外延量と見なしている。



 他方、契約説はそれとは正反対のやり方で論じ進む。つまり、正しい運営・振る舞いの構造形態の系列を徐々に明確化し(したがって、各形態はそれに先立つ形態の枠内に配置される)、全体に関する一般的な枠組みから発して、各部分をますます明確に描き出す決定にいたるという手をとる。



 快楽主義的な功利主義は冒的論的な理論の手続きの古典的な事例であり、有無を言わせぬ単純化によってその手続きを例証してくれる。




 〈公正としての正義〉は二番目の可能性を例示している。それゆえ四段階系列は、原理、基準、ルール


 ーこれらが一貫して適用・固守される場合、社会的行為を取りしきる明確な基本法をもたらすー  


 の階層的な構造を(複数の手順を踏んで)築き上げるよう意図された、合意と立法の順序を定式化するものとなる。





 ところで、この系列は運営・振る舞いの完壁な詳述(特定化)を目指すものではない。むしろ、そのねらいは、

個々人とさまざまな連合体が自由におのおのの達成目標を促進でき、熟慮に基づく合理性が自由に活動できる境

地へと接近するところにある。