米国の正義 Do the right thing ? (78)







本日は 第84節 選択の一方法としての快楽主義 から











 快楽主義は、ひとつの理にかなった有力な人生目的を定義できない。


 このことは明白だろう。私たちはただ次の点を指摘するだけよい。すなわち、ひとたびその強度と持

続性を行為者の計算に加えることができるほどじゅうぶんに明確な仕方で、快楽が了解されるならば、

快楽こそ唯一の合理的な達成目標だと捉えるべきだとの言い分はもはや説得力がなくなる。



 感情や感覚の一定の属性を何にもまして選好することは、他者にふるう権力や物質的な富を最大化することを最優先する欲求と同様に、疑いなくバランスを欠いており非人間的である。












 アリストテレスは次のように述べている。善い人は、必要ならば友だちのために命を捨てる。なぜなら、長期間の穏やかな喜びよりも短期間の強裂快楽のほうを、また多年にわたる退屈な暮らしより一年で終了する気高い生活のほうを選好するからである。





 しかしその善人はこうした意思決定をどのようになすのだろうか。





 サンタヤナが述べているように、私たちは快楽と苦痛とを引き比べてそれぞれの相対的な真価を確定しなければならない。





 ペトラルガが千の快楽は一の苦痛に値しないと断じたとき、彼はそれらを比較するために快苦よりもいっそう基礎的である基準を採用している。





 個人がそうした意思決定を自ら下そうとする場合、現在および未来の、当人のあらゆる種類の性向や欲求を考慮に入れなけれならない。



 そうなると〈熟慮に基づく合理性〉〔という意思決定の基準〕からまったく論が進んでいないことは明らかだろう。



 目的の複数性という問題は、主観的な感情の部類の範囲内であっても再び持ち上がるのである。











 私たちの熟考された価値判断と合致するかたちで追求できるような、有力な人生目的などは存在しない、ということには議論の余地はあるまい。




 合理的な人生計画を実現するという包括的な人生目的は、この有力な人生目的とはまた別物である。





 ただし、合理的な選択手続きを提供できないという快楽主義の欠陥は何ら驚くベきことではない。




 記憶と創造、信念と仮定(およびその他の複数の心的作用に関して)をどうやって区別しているのかを説明するために、〔当人しか理解できない〕ある特別な経験を措定することは間違っている。





 合理的な熟慮の可能性を説明するのに用いられる計算の単位を、ある種の快適な感情が〔特権的に〕定義しうるとする推定も、成り立ちそうもない。




 快楽であれ他のどんな最終的な目的であれ、快楽主義者が快楽に割り当てるような役割を担うことはできない。













 正とは独立に定義される善をまず目指すことによって、私たちの生活を形作ろうなどと試みるべきではない。





 私たちの自然本性を第一義的に示して義るものは、私たちの達成目標ではない。






 むしろ(私たちの達成目標を形成する上で背景をなす)複数の条件および(達成目標が追求されうる流儀を律することを私たちが承認すると考えられる)原理こそが、私たちの自然本性を浮き彫りにする。




 なぜかというと、自我は自我が確証・肯定する諸目的に先立つ存在だからである。




 有力な人生目的でさえ、無数の可能性の中から選択されなければならない。




 熟慮に基づく合理性を超える理性は存在しない。それゆえ私たちは、目的論的な学説によって企てられた正と善との関係を逆転せ、正のほうが善に優先すると見做さねばならない。




 その場合、目的論的な学説とは反対の方向に進むことによって道徳理論は発展させられる。