米国の正義 Do the right thing ? (77)





本日は 第83節 幸福と有力な人生目的 から






 

 

 劣位の快楽を享受したり遊びや娯楽に耽ることと、この不偏・無関心の原理とが両立しうる。

 

 というのは、こうした活動が精神を和らげ、霊魂を憩わせることによって、より重要な達成目標がい

っそう適切に促進されるようになるからである。

 

 

 それゆえトマス・アクィナスは、神を幻視することが人間のあらゆる知識と努力の最終目的であると

信じていたにもかかわらず、私たちの人生の中に遊びや娯楽が位置つくことを容認していた。

 

 

 それでもなお、そうした快楽が許されるのは、それによって上位の達成目標が促進される、もしくは

少なくとも妨げられない限りにおいてのみである。

 

 

 

 

 ばか騒ぎや冗談、愛情や友情に耽溺することによって、私たちの最終目的を最大限実現することが妨

げられないように、ものごとを整理・配列しなければならない。

 

 

 

 

 

 〈有力な人生目的〉説の極端な性質は、そうした目的が提唱される際の曖昧さや多義性によって、し

ばしば覆い隠されてしまう。したがって、もし神が道徳的な存在であると見なされるならば(確かに神は

そうした存在であるに違いない)、他のどんな存在ではなく神に仕えるという目的はー神の意図が啓示に

よって明らかでない限り、もしくは自然本性的な理性によって明白でない限りにおいて詳細不明のまま残されることになる。

 

 

 こうした〔目的の曖昧さ、多義性、詳細不明といった〕限界の範囲内で、神学的な道徳理論は複数の原理を釣り合わせ、優先順位を確定するという問題を免れない(そしてこの問題は他の構想を悩ませているものと同一である)。

 

 

 

 争点となる設問は普通この点にこそ存するため、宗教的な倫理によって提唱された解決策は見掛け倒しに過ぎない。

 

 

 

 また確実なことだが、有力な人生目的の中身が政治的権力や物質的な富などの客観的な目標を達成することとしてはっきり特定されてしまうと、その基底に横たわっている狂信や非人間性が一目瞭然となる。

 

 

 自我の達成目標が異種混交的なものである以上、人間の善も異種混交的となる。

 

 

 すべての達成目標をひとつの人生目的に従属させることは、厳密には合理的な選択の原理を侵害しないとはいえ(計数原理を侵害しないのは、ともかくのこととして)、やはり私たちの目には非合理であると、あるいはそれどころか狂気の沙汰だと映る。

 

 

 自我は醜く歪められてしまい、体系のためだとはいえ有力な人生目的のひとつに仕えるものへと販められるからである。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私見、神は絶対無矛盾性を有していない。それはヒトが生み出したものであるから。

 

 戦争、それは 無 零 に帰す戦いである。生きることが死ぬこと、死ぬことが生きること、生は矛盾そのものなのであり、零に帰す生、そこでは言の葉は価値を没してしまう。