米国の正義 Do the right thing ? (75)





本日は 第81節 嫉みと平等 から








 嫉みへの傾向は、無力感と結びついた、おのれの真価に対する自信の欠如を主要な心理学的根源とす

る。


 自分の生き方に熱情や生気が備わっていないうえに、その生き方を変えたり、なおもやりたいことを

する手段・資力を入手する力がないと感じてしまう。


 対照的に、自分の人生計画の真価や、そうした計画を遂行するためのおのれの能力に自信を持ってい

る者は、恨みを抱くことがないし、また自分の幸運を失うまいと警戒心を燃やすこともない。



 たとえ可能だとしても、自分自身に損失を与えてまで他の人びとの相対的利益を引き下げる気は毛頭

ない。



 この仮説は次のことを含意している。すなわち、最も恵まれない人びとは、自分たちの自尊が不安定

であればあるほど、そして将来の見通しを改善できそうもないとの気持ちが募れば募るほど、より恵ま

れた人びとのより良好な状況をいっそう嫉む傾向にある。



 同様に、競争や対立関係によって喚起される特定の嫉みは、当人の挫折が甚だしいものであればあるほど、それだけ激しいものとなろう。


 なぜかというと、本人の自信が受けた痛手はいっそう深刻なものであり、その喪失感は修復不可能だ

と思われるからである。




 しかしながら、ここでの主たる関心は一般的な嫉みのほうに向けられている。


 敵意に充ちた嫉みの発生を助長する三つの条件がある、と想定する。



 第一に、さきほど指摘した心理的な条件がある。すなわち、おのれの価値ややりがいのあることを行

なう自分の能力に対する確かな自信が欠如してしまうことである。



 第二に(そして二つある社会的条件のひとつ目として)、最初の心理的な条件が苦痛かつ屈辱的なも

のとして経験される多くの誘因が生じること。自分と他者との差異は、当人が帰属する社会の構造や生活様式によって明らかになる。それゆえ、それほど幸運に恵まれていない人びとはしばしば、自分たちの状況〔の不遇さ〕を無理やり思い知らされ、時として自分やおのれの暮らしぶりをいっそう低く評価するよう強いられる。


 そして第三に、あまり幸運だと言えない人びとが本人の社会的立場を諦観して、より裕福な人びとの恵まれた情況に対抗できるどのような建設的な選択肢もありえないと見切るという〔社会的〕条件がある。苦悶や劣等感といった自己の感情を和らげるためには、たとえ自分自身に損失が生じるとしても、より良好な状況にある人びとに損害を与えるということ以外に選択の余地はない、と彼らは考える。もちろんこの信念が生じてくるのは、彼らが諦念やアパシーへと逆戻りしない限りにおいてにほかならない。



 社会システムが絶対にしてはならないことは、それらを有する人びとを抑圧し失望させるのが必至であるような性向や願いを助長することである。社会によって引き出される特殊な心理のパターンが、その制度編成を支持するもしくはその制度編成によって無理なく調整されうる限りは、正義構想の選択を再考する必要はまったくない。








 私見、自由、平等、博愛は米国では、自由、平等、アメリカンドリーム、なのである。そして一定の制限をかけるのが、”Do the right thing”、正義である。


 わが国では差し詰め、まいど! おおきに! ぼちぼちやな~ ほな! あたりなのかもしれない。

そこで欲をかくと、あほやな~ と、社会が決することになる。