本日は 第80節 嫉みの問題 から
嫉みは道徳感情ではない。
嫉みを説明する際にはどのような道徳原理も参照する必要はない。
他者のより良好な状況が私たちの注目を引きつける、というだけでじゅうぶんである。
彼らの幸運〔を目のあたりにすること〕によって私たちは意気消沈し、もはや自分が持っているもの
を高く評価しなくなる。
そしてこの損傷と喪失の感覚が私たちの恨みと敵意を喚起する。
したがって、嫉みと憤慨とを混同しないように注意しなければならない。
なぜなら憤慨は道徳感情だからである。もし私たちが自分の財産が他の人びとよりも少ないことに憤
るならば、それは、彼らのより裕福な状態は不正な制度、もしくは彼らによる不正な行いの結果であ
る、と私たちが考えたからでなければならない。
憤慨を表明する人びとは、なぜある制度は不正なのか、あるいはどのように自分たちは他者によって
傷つけられたのかを説明する用意ができていなければならない。
道徳感情と嫉みを区別するものは、両者に関する異なった説明の仕方、すなわちその状況を考察する
視座の種類である(第73節)。
嫉みと関係はあるが、それと取り違えてはならない道徳外的な感情についても、注意を怠ってはなら
ない。
とりわけ、警戒心や吝薔(過度な物惜しみ)は、いわば嫉みとは逆の位置を占めている。
より裕福な人は、自分よりも恵まれていない人びとがそのままその状態にとどまっていることを願う
かもしれない。
彼は自分の優越した立場を失うまいと警戒し、恵まれていない人びとに対して、彼らを自分と同等に
するような多大な相対的利益を与えることを渋る。
そしてこの性向が、自分は必要とせず、また自分自身は用いることのできない便益を彼らに与えないところにまで拡張してしまうならば、当人は悪意によって動かされている。
こうした性向は、嫉みの場合と同様に集団全体に危害を及ぼすものとなる。
なぜなら、吝 嗇(りんしょく 文学作品において、「けち」等と読ませることもある)で悪意のある
人は自分と他の人びととの距たりを維持するためなら、進んで大切なものを手放そうとするからである。
社会は基本財における非常に大きな格差を容認しているため、現行の社会的条件のもとでは、そうし
た差異が自己肯定感の喪失を惹起せざるをえない。