本日は 第73節 道徳的情操の特徴 から
情操には道徳的なものと自然本性なものとの二つが存在する。
契約論的見解の健全性を想定するならば、
ある道徳感情の説明は原初状態で選択されると考えられる正の原理に依拠している一方、
他の道徳感情は善さの概念と関連している。
たとえば、ある人は(ある公正な制度枠組みによって定義されるような)自分の取り分以上のものを取
得していたり、他の人びとを不公正に扱っていたと知ることによって、罪責の意識を感じる。あるい
は、臆病で正々堂々と意見を述べられなかった人が、そのことに恥辱を感じている。〔どちらの場合に
あっても〕当人は、自分が達成しようと決めた道徳的真価の構想に従って行動することができなかった。
顕在化しうる一群の性向・構えは個人が有している道徳性に応じて変化する、と仮定することができ
よう。
たとえば、罪責の意識の典型的な表現や適切な説明は、連合体の道徳性の理想や役割がより複雑
かつ要求度の高いものとなるにつれて、まったく異なるものになるであろう。
罪責と恥辱は、すべての道徳的な振る舞いのうちに存在しているはずの、他者および自分の人格に対
する懸念を反映している。
とはいうものの、いくつかの徳とそれらを重んじている道徳性は、他の感情ではなくある特定の感情
の観点に典型的なものであって、それゆえより密接に当該の感情と結びついている。
したがってとりわけ、義務以上の道徳性は恥辱の〔念が生じやすい〕舞台を用意する。
なぜなら、義務以上の道徳性は道徳的卓越の高次形態、すなわち人類愛と自制を提示しており、その
ような道徳性を選択する際には、人はまさにそれらの本性上失敗を覚悟しているからである。
しかしながら、完結した道徳的構想において、ひとつの感情の視座を別の感情の視座よりも重視する
ことは間違っていると言えよう。
なぜなら、正と正義の理論は、平等な道徳的人格として自己の観点と他者の観点とを調停する、互恵
性(助け合い)の観念に基づいているからである。
罪責と差恥、良心の呵責と後悔、義憤と憤慨は、道徳性の異なる部分に属している原理に訴えかけて
いるか、または対照的な観点から原理を引き合いに出している。