本日は 第68節 正と善との問のいくつかの相違点 から
契約論の構造上、正の概念と善の概念によって道徳的真価を説明できる。両者は契約論の二つの基底
的な概念に位置づけられる。
〈公正としての正義〉にあっては正と善の概念は著しく異なった特徴を備えている。
これらの差異は契約理論の構造と、それに由来する正と正義の優先権から生じている。
私たちの日常の発話はこうした概念の説明を支持する傾向があるかもしれないけれども、この対応(反
映)は契約理論が精確で当を得ていることにとって必要なわけではない。
私たちのしっかりした判断を正義の理論に写像する方法が〔契約理論には〕ある。
私たちが契約理論を理解するならば、こうした〔正と善の概念についての〕解釈は、熟考・反照の上
で私たちがまさに擁護したいと願う構想の適切な表現として認めうる。
私見、正、正義とされるものはどこからやってくるのか?それはプログラム化可能なのか?マーヴィンミンスキー教授は以下のように述べる、(『ミンスキー博士の脳の探検』2009年、邦訳 竹林洋一)
「ある特定の分野の専門家は,数百または数千の知識やスキルを習得だけすればよいのに対して、5才
の子どもの能力の実現には,何百万という日常の常識や知識の断片を学習し組織化する必要がある。
また,子どもはこれらの知識のうちどれを,そしていつ使うかという問題にも直面する。」
「 人々が「私は自由意志で意思決定した」と言うとき,これは「あるプロセスが私の〈熟考〉を止め
て,そのときに最善と思われる選択をさせた」と言うのとほぼ同じであると私は思う。言い換えれ
ば,"自由意志"とは意思決定に用いるプロセスではなく,他のプロセスを止めるために用いるプロセス
である!
私たちはこれをポジティブな観点で考えているかもしれないが,おそらくこれは,選択を強いられ
ているという感覚を抑制するようにも働いている一その選択は,外側からの圧力によるものでないな
ら,自分自身の心の内側から生じたものである。「私の決定は自由だった」と言うことは,「私に決
心させたものについて知りたくない」と言うこととほとんど同じである。」
「 脳は,集中する一方で,緊急の警報にも応答しなければならない。それにもかかわらず,私たちは依
然として文明社会全体に広がる教義や哲学,信仰,信念の影響を受けやすい。そのような影響から身
を守るための,誰でも扱えるような方法を想像することは難しい。私が思いつく限りの最善策は,批
評的思考の能力と科学的検証の方法を子どもたちがもっと学べる教育を試みることである。」
「 私たちはどのようなタイプの仕事に対しても,それをやり遂げるためのさまざまな方法を数多く
持っている。また,私たちの脳の多くの部分は,他の部分の不具合による影響を修正する(あるいは
抑える〉'方法として進化したという考えも,理にかなっている。
人間の脳はどのようにしたら、上手に機能させられるのか,また,そのように進化したのはなぜ
かを科学者たちが発見するのは困難になろう。人間の脳を理解するためには,このようなシステム
を自分たちで構築しようとする経験をもっと積まない限り不可能であると私は思う。そうして初
めて,どのような種類のバグが見つけやすく,さらに,それらをコントロールするにはどのようにし
たらよいかが,十分にわかるだろう。」
私見、暗黙的な知、慣習、という概念に代わるわかりやすい知、それが「正義」なのであろうか?わかりやすいことは危険なのかもしれない。そうすると、わかりやすいことをわかりにくく説明することで、知が深まっていくのであろうか・・・