米国の正義 Do the right thing ? (61)





本日は 第67節 自尊、卓越および恥辱から





 

 

 

 最も重要な基本財は自尊である。自尊を有していなければ、行なう価値があると思うれるものは何も

なくなるであろうし、またたとえあることがらが私たちにとって価値あるものであっても、それを得よ

うと奮闘する意志を私たちは欠いてしまう。

 

 

 人びとが自分自身を尊重し、そして相互に尊敬し合うための条件は、人びとの共通の計画が合理的で

あり、かつ補完し合うということを要求しているように思われる。

 

 

 すなわち、そうした計画は人びとの素質の教育を要求し、各人に達成感を喚起する。

 

 しかもそのような計画は、すべての人が高く評価し、享受することができる活動のぴとつの枠組みに

適合するのである。

 

 

 

 

 

 

 

 後悔は自分にとって善であると私たちが考えるものの喪失、もしくは欠如によって引き起こされる一

般的な感覚である。

 

 

 他方恥辱は、私たちの自尊、すなわち特別な種類の善に対して与えられる衝撃によって喚起される情

緒に等しい。

 

 

 

 

 正しいことや正義にかなったことをしたいという欲求は、人びとが自由で平等な理性的存在としての

自らの自然本性を表現するための第一の方法である。

 

 

 

 

 私たちが社会生活に関わることがらに持ち込んでいる私たちの人格の卓越、すなわちあらゆる徳は、

追求されるかもしれないし、またそれらの欠如によって私たちは恥辱を感じやすくなるかもしれない。

 

 

 いくつかの徳は特別な仕方で恥辱と結びついている。

 

 なぜならそれらの徳は自制やそれに付随する精神力や勇気、そして克己といった卓越を達成しそこな

ったことを特に示唆するからである。

 

 

 こうした特質の欠如を明らかに示す悪行は特に、私たちに恥辱という辛い感情を起こさせる可能性が

高い。

 

 

 それゆえに、正と正義の原理は、道徳的な恥辱と罪責の意識の両方を私たちに感じさせる行為を記述

するために用いられるが、その視点はそれぞれ異なっている。

 

 

 罪責の意識にあっては、他の人びとの正当な要求の侵害や私たちが彼らに対して与えた危害に私たち

の焦点はおかれ、そして彼らが私たちの所業を見抜いた場合、彼らから起こりうる憤慨や義憤に焦点は

おかれる。

 

 

 他方恥辱にあっては、私たちは自己肯定感の喪失や達成目標の遂行が不可能になることによって苦し

められる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私見、戦争は犯罪か?あるいは、正義の観点から戦争を検討する場合、1945年2月ヤルタ会談での極東密約、主に日本に関して、アメリカのルーズベルト、ソ連のスターリン、およびイギリスのチャーチルとの間で交わされた秘密協定、において、1944年12月14日にスターリンはアメリカの駐ソ大使W・アヴェレル・ハリマンに対して樺太(サハリン)南部や千島列島などの領有を要求しており、ルーズベルトはこれらの要求に応じる形で日ソ中立条約の一方的破棄、すなわちソ連の対日参戦を促した。

 さらにその後、1945年3月10日 東京大空襲、1945年3月12日 名古屋大空襲、1945年3月13日 大阪大空襲、1945年3月17日 神戸大空襲、1945年8月6日 広島、同8月9日 長崎の原爆投下、による一般市民の殺戮は誰の正義なのか?