本日は 第66節 善の定義を人びとに適用する から
自由と機会、所得と富、そしてとりわけ自尊が基本財である。
善の定義を〔人びとの〕道徳的真価の問題に拡大適用するためのいくつかの方法が提案されているが、少なくともその中のひとつはじゅうぶん役に立つと思われる。
まず第一に、何らかの基礎的な役割や立場、たとえば市民という役割や立場を特定し、そして善い人とは平均以上に、市民にとって互いに欲することが合理的である特性を備えている人である、
と言うことができるかもしれない。
この場合関連するのは、同じ役割を担う他の仲間を判定する市民の観点にほかならない。
第二に、善い人という概念はある一般的なもしくは標準的な評価を要求していると解釈されうるのであり、したがって善い人とは自らのさまざまな役割を、とりわけより重要であると考えられる役割を、じゅうぶんに果たしている人である。
最後に、人びとが担うほとんどすべての社会的役割という点から人びとが考察された場合に、人びとに関して欲することが合理的である特性が存在するかもしれない。
人そのものとしては確定された役割や機能を何ら有してはおらず、それゆえ人は道具やモノとして扱われるべきではない。しかし、人はある特定の役割を担っている。そして、正義の原理は平等な原初状態において合理的な人びとによって合意される。
悪い人は独断・専横的な権力を求めている。
なぜなら彼はその権力の行使が自らに与える支配の感覚を楽しみ、そして社会的な賞賛を求めている
からである。
彼はまた、適切に制限されるならば善であるようなことがら、すなわち、他者からの尊敬や自制の感
覚に対して、過度の欲求を持っている。
彼を危険人物とするのは、こうした熱望を充たす彼のやり方である。
対照的に、邪悪な人は不正なルールを切望している。
それはまさに、そのようなルールは、平等の原初状態において独立した人びとが合意すると考えられ
ることがらを侵害し、それゆえそのようなルールを保持し誇示することは自らの優先順位を明示し、か
つ他の人びとの自尊を侮辱するからである。
邪悪な人が追求しているものこそ、この誇示と侮辱にほかならない。
不正義に対する愛が、邪悪な人を動かしている。
すなわち彼は自分に従属する人びとの無力感や屈辱感を楽しみ、また人びとによって彼らの不名誉の
故意の創造者として承認されることを楽しんでいる。
私見、米国にあって今の日本にない精神基盤は、表面的な文化や物質に現れることのない、正義とそれを維持する国を愛する心なのかもしれない。
クールジャパン、物質的には豊かさは失われておらず超クールである。成長は確かに鈍化している。しかし、原宿の街並は美しく、メトロの列車は落書きにさらされず、麻薬の売人が夜の渋谷をふらつかないわが国は、ある意味クール、素敵である。しかし、その国民はその国家に対してもクール、冷めているのだ。