本日は 第65節 アリストテレス的原理 から
個人的な愛情や友情、有意義な仕事や社会的協働、知識の追求や美しいものの創出と観照といったよ
く知られている価値は、私たちの合理的な計画において傑出・卓抜しているのみならず、その大部分は
正義が許容する仕方で促進されるものでもある。
たしかに、これらの価値を実現・保持するために、私たちは不正な行為をしたくなることがしばしば
ある。しかし、右記の目的を実現することには、どのような内在的不正義も伴わない。他の人を騙し、
辱めたいという欲求とは対照的に、不正であることを行なうことは、人間的な善の記述には含まれな
い。
人々の活動力
ー 純粋に実務的なことがら、さらには遊びや気晴らしであるかもしれないー
を吸収する生活形式は、その複雑さや精妙さをほぼ無限に発展させる傾向がある、という事実によっ
て確証されるように思われる。
社会的な実践・慣行や協働の活動が多くの個人の想像力を通じて積み上げられるにつれて、しだいに
そうした実践や活動は才能のいっそう複雑な配置や新しい行動様式を呼び起こす。
こうしたプロセスが自然で自由な活動を楽しむことによって促進されるということは、まったく同じ
ような特徴を示している子どもや〔高等〕動物の無意識の遊びによって、確証されるだろう。
ある人にとっての合理的な計画という観点からその人の善を定義すること、この善の定義は申し分ないものである。
しかし、この人間の活動の原理を想定することによって、私たちはあるがままに解した人間にとって
何が善として認められるのかを説明することができる。
さらに、この人間の活動の原理は自尊という基本財と結びついているので、〈公正としての正義〉の
基礎をなす道徳心理学において中心的な位置を占めている。
再び閑話、以下クルーグマン、『グローバル経済を動かす愚かな人々』1999年から、
左派の多くがグローバル.マーケットを嫌うのは、マーケット一般について嫌いなことの典型が、そこ
に凝縮されているからである。
つまり、誰も責任を負っていないということを彼らは嫌悪しているのである。
だが実際には、国内マーケットでも見えざる手が支配している。
たいていのアメリカ人が、それを現実として受け入れている。しかし、あらゆる方面においてより管
理された社会に逆戻りすることを望む人々は、遠く離れた地に住み、妙な名前の人々が経済に影響を及
ぼすという漠然とした人々の不安を巧みに利用したがるのである。
一方、右派の多くがグローバリゼーションのレトリックを使うのは、ビジネスがすでに社会的義務を
満たすことはできないと訴えるためである。
たとえば、環境規制に反対する者が「競争力」の旗を掲げることは今や一般的になってきた。ビジネ
スでの経費を増加させることは、価格競争力を失わせ、世界のマーケットからアメリカの商品を追い出
してしまうと警告する。
グローバル経済が主張されるほど大げさなものではないとしても、ある専門家が呼ぶところの「グローバロニー」は本当に害を及ぼすのであろうか?もちろんである。国際貿易がすべての問題の根源だと信じ込まされれば、一般国民は保護貿易主義になびくかもしれない。
グローバリゼーションがアメリカだけでなく海外でも、人々のためになし得たことを台なしにしてしまうかもしれない。
けれどもこの熱い議論は、それ以上にややこしいリスクを含んでいる。
それは宿命論を人々に植えつけてしまう点だ。問題があまりにも巨大なので、とても対応できない、という感覚である。そのような宿命論は、西ヨーロッパではすでにかなり浸透している。
人々は、政策が失敗してしまった国内のリーダーに厳しい目を向けるかわりに、漠然とグローバル・マーケットによって引き起こされる「経済の恐怖」を心配する。
経済のみならず、アメリカの社会政策に立ちはだかる大きな問題はいずれも、外国から来たものではない。
アメリカは今以上に、貧しい、また不運な人々の面倒を見ることができるはずである。もしアメリカ
の政策が厳しくなっているのなら、それは政治的な選択の結果である。
名も知れない勢力によって、アメリカに押しつけられたものではない。グローバル・マーケットがア
メリカにそれを押しつけたのだという口実で、責任逃れすることはできないのである。