本日は 第62節 意味に関する覚え書き から
通常「善」や「悪」といった用語は助言や忠告を与えるために、そして賞賛や賞揚等を行なうために用いられているということが挙げられる。
同じ用語は条件文、命令や質問、そして実践的な意義を持たないその他の発言においてもあらわれうる。
助言や忠告を与え、賞賛や賞揚を行なう際に果たすそうした用語の役割が、それらの特徴を示している。
評価基準は事物の種類ごとに異なる。
住居に関して求められていることは、衣服に関して求められていることと異なる。
善さについての満足のいく定義は、この二つの事実に適合しなければならない。
対象によって基準は変化するにもかかわらず、「善」という用語は不変の意義を有しており、これは哲学上のねらいからすると通常記述的と見なされている他の用語(たとえば「四角い」や「赤い」)の意義と同種のものである。
実際この不変の意義によって、私たちは評価の基準が対象に応じて変化する理由と手順を理解することが可能となっている。
助言や勧告を与え、また推奨を表すことにおいて、「善」という用語を用いることの適宜性は、一般的な意味の理論とともにこの普遍の意義によって説明される。
私見、ここでいう善は人間の理性を絶対視している。今話題のギリシャで紀元前582年に生まれたピタゴラスは以下のように述べる。(『黄金詩篇』)
肝に命じよ、人は皆死ぬべく定められている
富はそれを得た時と同じように速やかに失われる
苦しみは、神のおぼし召しによってもたらされるので、喜んで受けよ
だが、一切の気苦労を除くように努め、正しい者がいつも最高の利益を得るとは限らないことを思え
人はもともと天上の種族である
神聖な自然により何を抱擁すべきかを教えられ、それを追求すれば、魂を肉体の汚れから守ることになる
控えよ
理性を用いて心のたづなを引け
そうすれば天上へと昇り、肉体からは自由になる
そなたは死を免れた聖人であり、もはや滅びることはない
私見、絶対的なもの、そこに神、死、をおくか無、生をおくか、あるいは存在そのものを無常とみるか、果てしない疑問の渦に飲み込まれることになる。
絶対無に関し佐伯先生は以下のように述べる。(『西田幾多郎』2014年)
フェイスブックとやらで世界中の人と友達になるよりも、ただ一人の友人を大事にし、世界中の絵画を見て歩くよりも、ただ一幅の思い出のつまったささやかな絵を大事にする。
そのただ「ひとつ」のモノとの邂逅にはすべてがある、と考えるのです。
世界はモノによって充満するのではなく、一つのモノのなかに世界がある、と考える。
それは、物事はすべて「無」からでて「無」へ帰するということです。
だからこそ、そこにはどうしても「悲哀」が漂う。
日本の哲学の動機が「悲哀」にあるとはそういうことなのです。
しかも、グローバル化やIT化のなかで、すべてが拡張と成長と分類と収集へと向かう「近代」の論理に巻き込まれた我々自身が、まさにこの種の「無の思想」を忘れ去ってしまいつつあるのは何ともなさけないことではないでしょうか。