米国の正義 Do the right thing ? (52)






本日は 第58節 良心的拒否の正当化 から







 国家としてまとまった自主独立の民衆(人民)は一定の基本的で平等な権利を有する。


 この原理は立憲体制下の市民たちの平等な権利に類比しうる。


 この諸国民の平等のひとつの帰結は自決の原理すなわち民衆が外国勢力の干渉を受けることなく、


 自分たちのことがらを自分たちで解決する権利にほかならない。



 


 戦争の達成目標は正義にかなった平和であり、よって用いられる手段が平和の可能性を壊すものであったり、自分たちと人類の安全を危険にさらすような人間の暮らしへの蔑みを助長するものであったりしてはならないからである。



 戦争の実施・遂行は制約され、この目的を達成するために調整されることになる。


 諸国家を代表する者たちは、戦争手段に関するこうした制限を承認することを通じて原初状態から見た自分たちの国益が最高度に推進されるということを、認めるであろう。


 それというのも、正義にかなった国家の国益は、すでに承認された正義の原理によって規定されているからである。



 複数の民衆を律する正義の原理が特定の武力衝突に適用される場合を考えてみよう。


 こうした正義の原理に基づく良心的拒否は、別個の問題となる。


 というのも、そのような拒否は政府の偽りの主張に敢然と立ち向かうことであり、それが広範囲に及んだときには、正義にもとる戦争の継続は不可能だと分かるだろうからである。



 国家権力の達成目標がしばしば略奪に向かうこと、および政府の開戦の意思決定に唯々諾々と従いがちな人間の傾向性とを鑑みれば、国家の権利主張に対して抵抗しようとする意欲が行き渡ることが、それだけますます必要となってくる。









 私見、平和とは何なのか?平和ボケ、時差ボケ、それは不可逆的な知機能障害ではないはずである。

しかしボケから回復しても、良心的拒否は有効には機能しえない。





 西部先生は以下のように述べられている。(『核武装論』2007年))



 人間および国家は、「諸徳のあいだの矛盾」を「平衡」させることに失敗して不徳に走りかねません。


 そのことを予想しておくと、「平和(戦争防止)のための武装」が必要なことはおろか、「大戦争を防止するための(予防的な)小戦争」が必要な場合いがあるとすぐ見当がつきます。


 予防的小戦争が覇権的な大戦争を誘発するということもt「大東亜戦争」を振り返ればわかるようにーよく起こりますので、すでに検討したように予防的自衛には要注意でしょう。


 しかし、「全き平和」など、世界史のどの頁にも出てこないことも確かなのです。


 したがって、「国家間の試力衝突」としての戦争が平和の掛け声くらいで防げるわけもないとわきまえておかなければなりません。



 「平和」の元々の意味についても言及しておいたほうがよいでしょう。


  つまりピースの原義は「パクス」であり、それはi「パクト」(協定)とほぼ同義なのですからー「強国が協定によって弱小諸国を押さえ込むことの結果としての、大きな戦争がない状態」をさすのです。



 これでなぜ、パクス・ロマーナ(「ローマの平和」)とか。バクス・ブリタニカ(「英国の平和」)とかパクス・アメリカーナ(「米国の平和」)といわれるのか、おわかりでしょう。


 要するに平和とは「平定」のことだったのです。



 試みに。バクス・ロマーナあるいはローマン・ピースに辞書でどんな追加的な説明がほどこされているか調べてみましょう。


 その第二義は「強国が弱国に押しつける平和」であり、


 その第三義は「弱国からの敵意の潜む不安な平和」なのです。


 強国がわからいえば、かつて(第二次欧州大戦を指揮したイギリスの宰相)チャーチルがいったように、「平和は戦いとるものだ」ということになりましょう。しかしそれは、弱国のがわからみると、「押しつけられた平和」でしかないでしょう。