米国の正義 Do the right thing ? (51)





本日は 第57節 市民的不服従の正当化 から








 市民的不服従を、共同体の正義感覚に呼びかける政治的な行為、かつ大幅で明白な不正義の場合、平等な自由の原理、公正な機会均等の原理を侵害する。



 市民的不服従の条件はこうなる。


 〔1〕政治上の多数派に対する通常の訴えかけがすでに誠意をもって続けられたにもかかわらず失敗し

   ている(と想定しうること)。


 〔2〕矯正(正義回復)のための法的手段はないことが明らかとなっていること。


 〔3〕よって、たとえば既存の政党は、少数派の権利要求に対する無関心を顕わにしていること、もし

   くは少数派の権利要求を受け入れる意欲の欠如を示していること。


 〔4〕法を撤廃しようとする試みは無視されており、合法的な抗議やデモも不首尾に終わっているこ

   と。



 市民的不服従は最後の手段であるが、法的手段が尽くされたとは言われていない。


 いずれにせよ、通常の訴えかけをさらに繰り返すことはできるー自由な言論はいつでも可能なのだから。



 正義の自然本性的な義務は、憲法体制と私たちをつなぐ政治的紐帯の第一義的な基礎である。



 社会のより恵まれたメンバーたちだけが、政治的義務に対立するものとしての明瞭な政治的責務を有

する傾向にある。彼らは公職を得やすい好位置を占めており、政治システムを活用しやすいと感じてい

る。


 実際そのようにしてきた彼らは、広く市民に対して、正義にかなった憲法を守る責務を負うようにな

ったのである。


 だが、たとえば支配対象となってきた少数派のメンバーで、市民的不服従に踏み切るじゅうぶんな理

由がある人びとには、通常この種の政治的責務はない。


 けれども、だからといって彼らのケースで公正の原理が重要な責務を生じさせないわけではない。


 それというのも、私的生活上の要求事項の多くがまさにこの原理から導かれているのみならず、共通

のもろもろの政治的目的のために個人や集団が集う際にもその原理は効力を発するからである。



 私たちぎまざまな私的連合体への参加を共にする人びとに対して責務を負うことになるのとまさに同

じように、政治的行為に携わる人びとは相互連携の責務を引き受ける。


 ゆえに、異議申し立てをする者たちがあまねく市民に対して負う政治的責務は難しい問題であるけれども、彼らが自分たちの大義を高めようとするにつれて、両者の問の忠誠の絆はさらに強まる。




 一般に、正義にかなった憲法下の自由な連合体は、その集団の目的が正統でその制度編成が公正であ

るという条件を充たす限りで、複数の責務を生み出す。




 

 

 

 

 

 私見、守り保つべきものが何であるかいささか疑問になってくることがある。それは市民的不服従ではなし得ない。数の論理や西部先生の述べられる、単純な模型を大量の流行に上らせるという近代主義(米国の価値観)においては事実上不可能である。

 

 

 伊藤 貫氏の父は第二次世界大戦中戦闘機のパイロットであった。彼の父は敗戦後昭和21年に日本に帰国した。以下『表現者』第61号 111項

 

 

 久しぶりに祖国に帰ってきた父は、日本国民の大変身(大変心)ぶりに驚愕した。多くの日本人が声を

揃えて「アメリカ万歳!マッカーサー万歳!民主主義万歳!平和憲法万歳!」と叫んでいたのである。米

占領軍の一方的な政策に本気で抵抗しようとしている日本人など、ただの一人もいなかったという。日本人の中には、「お前は戦闘機のパイロットとして日本の侵略戦争に加担した軍国主義者だ!戦争犯罪者だ!」と父を罵る者までいた。三回墜落して、ほとんど死にかけて帰還した父は、「日本人は、裏切り者民族なのだ。たった一回戦争に負けただけで、あっという間に変身してしまう。こんな裏切り者民族のために、戦闘機パイロットの八割が戦死したのか。僕の同僚たちの戦死は、犬死だったのか」と感じたという。