本日は 第56節 良心的拒否の定義 から
良心的拒否は直接的な法的強制命令や行政命令に対する不遵守である。
政治的正義の原理が要求する行いを拒否する際に宗教的原理に訴えかける人びとがいる場合、ことの正しい成り行きを見つけるのは難しい。
正義にかなった戦争があるとして、平和主義者はそのような戦争の兵役から免除されるのか。
それとも国家は不遵守者に対して一定の辛苦を課すことが許されるのか。法は良心の命令をつねに尊
重しなければならないと言いたいところだが、それはありえない。
市民的不服従には特別な種類の政治的訴えかけとしての性質があるため、通常それは法的枠組みの中
で他の手段が尽くされるまでは正当化されない。
それとは対照的に、正統な良心的拒否の明白なケースだとこの要件は成り立たないことが多い。
私見、戦争は肯定してはならない。しかし、命を懸けてでも守り保つべきものはある。そうすると自己矛盾に陥ることになる。
西部先生は次のように述べられている。(『表現者』第61号)
今回の(日米ガイドラインの改定をはじめとする)あれこれの法制改革は、対米軍事協力を
一つに後方支援に限らず前方参加にまで広げること、
二つに人道支援に限らず武器使用をも認めること、
三つに地理的な範囲をアジアから世界にまで拡大するということを意味します。
それら自体は、国家が健全ならば、ごく真っ当な改革です。
しかし軍事的協力の相手たるアメリカは一九六〇年代半ばのベトナム侵略から近年におけるイラク・アフガニスタン・シリア・ウクライナまで、侵略的もしくは準侵略的な戦争行為をやり続けてきました。
ここで侵略というのは「国家の意思による、覇権拡張のための、先制武力攻撃」ということであります。
それは戦後の国際法によって形の上では禁じられているとはいえ、国際法という曖昧なルールをめぐる「解釈と運用」は、多くの場合、きわめて恣意的であります。
イラク侵略がその見本であったように、憶測によって相手の不法を難じ、事後的にその憶測が誤りであったと認めなければならないという国際法躁躍を、アメリカは幾度も犯してきたのです。
したがって「日米同盟の強化」にあってはアメリカの侵略行為に日本が加担することになってしまう虞れが多分にある、と推測せざるをえません。