蟻の正義 Do the right thing ? (13)






本日は第5章 「群れ」か「個」か、それが問題だ からです。







 

 

 

 生き物の集団を群れとみるのは、狭い空間に複数の個体がいるという事実より、当該生き物が全体として群れる何らかの意味がある場合である。

 

 

 この群れは、アリのコロニーのように集団どうしで競争があり、どちらの集団が生き残れる方に選ばれるかを争うための「群選択」とは違う。

 

 

 群れるメリットは混群のように個体の適応度、遺伝子を残す度合があがるということである。その反面、捕食されやすくなる、伝染病がパンデミックを引き起こす場合があるというデメリットがある。

 

 

 「私」という個体は、細胞どうしの「完全な社会」、細胞の群れ、とも考えうる。

 

 

 

 

 経済圏は国家内に企業の境界が収まっていたが、グローバリズムは、国の境界と、その内部に留まっていた企業の境界をグローバル化することであり、経済のグローバリズムは地域ごとに分かれていた経済圏を世界に拡大し、利己的なフリーライダーの絶滅と利他者の再興で平衡が保たれるような機構が働かなくなる。




 

 

 土俵が一つになれば、利己者によって食いつぶされれば全てが終了となる。





 

 モノの生産と流通を行わないヘッジファンドなどは企業利益を吸い上げて、一つになった経済圏全体の経済基盤を弱めてしまう動きに対抗できなくなる。

 

 

 「地産地消」やスローライフは経済圏を閉域化し、集団ごとに分かれた構造を保つことで、グローバリズムがもたらす弊害に対抗するという考えである。

 

 しかし、「金銭的利益」が「経済適応度」として一義的に重要視され、経済圏が地域や国を超えて広がっている現況では、問題解決はそう簡単ではない。

 

 

 組織の効率追求と組織自体が存続できる可能性の綱引き、という点はヒトの社会もムシの社会も同じことである。

 

 というより、「群れ」の甘い蜜を一度吸ってしまうとまことに面倒くさい、「群れか個か」という問題から逃れるすべはない。

 

 

 

 私見、社会が都市化していく一方、地方都市の周縁にある地域で「地産地消」やスローライフといった社会を選んで生きていくことには相当勇気がいる。そこにある周縁地域を守るのは榊原先生がおっしゃるような企業ではなく、公的な仕組みだと筆者は考える。しかし、都市の便利さという甘い蜜を吸ってしまったヒトを再び周縁に戻すのは大変な困難を伴っている。