r>g 資本収益率と経済成長率(1)





 先日の塾で西部先生にThomas Pikettyも読んでないのか!とはっぱをかけられたので、次回の講義までに少しずつ読み進めようと思う。本稿の引用はみすず書房、2015年1月 第9刷りによる。










「資本主義は自動的に、恣意的で持続不可能な格差を生み出し、それが民主主義社会の基盤となる能力主義的な価値観を大幅に衰退させる」(2頁)






「価格システムは何百万人もの個人の活動を調整するのに、重要な役割を果たしているいや何百万人ど

ころか、新グローバル経済では何十億人の活動が価格で調整されている。問題は、価格システムは程度をわきまえないし道徳性もないということだ。」(7頁)










「初の米国国民経済計算データを確立し、格差指標の初の時系列データを集めたクズネッツの業績は、きわめて重要なものだし、著書を読むと(論文とはちがって)かれが真の科学的倫理を持っていたこと

は明らかだ。さらに、第二次世界大戦後の先進国すべてで見られた高い経済成長率は、大きな意義を持つ現象だったし、それと同じくらい重要な点として、あらゆる社会集団がその成長の果実を享受できた。栄光の30年がある種の楽観論を育み、富の分配をめぐる19世紀の終末論的な予言が、ある程度人気を失ったのも十分に理解できる。


 それでも、魔法のようなクズネッツ曲線理論は相当部分がまちがった理由のために構築されたものであり、その実証的な根拠はきわめて弱いものだった。1914年から1945年にかけてほとんどの富裕国で見られた、急激な所得格差の低下は、何よりも二度の世界大戦と、それに伴う激しい経済政治的なショック(特に大きな財産を持っていた人々に対するもの)のおかげだった。クズネッツが描いたようなセクター間モビリティといった、穏やかなプロセスとはほとんど関係なかったのだ。」(16頁)











「ある意味で、21世紀初頭の私たちは、19世紀初期の先人たちとまったく同じ立場にある。世界中で経済は激変しているし、今後数十年間でそれがどれほど大幅な変化になるか、富の世界的な分配がどうなるかは、国際的にも、それぞれの国内についても、非常に見極めにくい。19世紀の経済学者たちは、経済分析の核心に分配の問題を据え、長期トレンドを研究しようとした点で大いに賞賛されるべきだ。かれらの答えは必ずしも満足いくものではなかったが、少なくとも正しい質問はしていた。成長が自動的にバランスのとれたものになるなどと考えるべき本質的な理由などない。格差の問題を経済分析の核心に戻して、19世紀に提起された問題を考え始める時期はとうに来ているのだ。あまりに長きにわたり、経済学者たちは富の分配を無視してきた。その一部はクズネッツの楽観的な結論のせいだし、一部は代表的工ージェントなるものに基づいた、単純すぎる数学モデルをあまりに経済学が崇めてきたせい越。格差の問題が再び中心的なものになるためには、まず過去と現在のトレンドを理解するために、できるかぎり広範な歴史的データ集合を集めることから始めねばならない。そこに働いているメカニズムを同定し、将来についてもっとはっきりしたアイデアを得るためには、辛抱強く事実やパターンを明らかにして、各国を比較するしかない」(18頁)







「最初の結論は、富と所得の格差についてのあらゆる経済的決定論に対し、眉にツバをつけるべきだというものとなる。富の分配史は土日からきわめて政治的で、経済メカニズムだけに還元できるものではない・特に1910年から1950年にかけてほとんどの先進国で生じた格差の低減は、何よりも戦争の結果であり、戦争のショックに対応するため政府が採用した政策の結果なのだ。同様に、1980年以降の格差再興もまた、過去数十年における政治的シフトによる部分が大きい。特に課税と金融に関する部分が大きい。格差の歴史は、経済的、社会的、政治的なアクターたちが、何が公正で何がそうでないと判断するか、さらにそれぞれのアクターたちの相対的な力関係とそこから生じる集合的な選択によって形成される。これは関係するアクターたちすべての共同の産物なのだ。」(23頁)










 

「第二の結論は本書の核心となるものだが、富の分配の力学を見ると収敏と拡大を交互に進めるような強力なメカニズムがわかるということだ。さらに、不安定性を拡大するような不均衡化への力が永続的に有力であり続けるのを止める、自然の自発的なプロセスなどないこともわかる。

収敏を後押しするメカニズムをまず考えよう。つまり、格差を減らし圧縮する力だ。収敏に向かう主要な力は、知識の普及と訓練や技能への投資だ。需要と供給の法則、そしてその法則の変種である資本と労働のモビリティもまた、常に収敏へと向かうかもしれないが、この経済法則の影響は知識や技能の普及に比べれば弱いもので、その含意はあいまいだったり矛盾していたりすることも多い。知識と技能の分散こそが、全体としての生産性成長の鍵だし、国同士でもそれぞれの国内でも格差低減の鍵となる。現在でも、かつて貧しかった多くの国が見せている進歩はその反映で、その筆頭は中国だ。こうした新興経済はいまや先進経済に追いつこうとしている。富裕国の生産様式を採用して、他で見られるものに比肩する技能を獲得することで、低開発国は生産性を飛躍させ、国民所得を高めた。技術収敏プロセスは、貿易のために国境を開くことで後押しされることもあるが、これは市場メカニズムというよりは基本的に知識ー何よりもすぐれた公共財ーの普及と共有のプロセスだ。」(25頁)

 

 




 




「経済学という学問分野は、まだ数学だの、純粋理論的でしばしばきわめてイデオロギー偏向を伴った臆測だのに対するガキっぽい情熱を克服できておらずそのために歴史研究や他の社会科学との共同作

業が犠牲になっている。経済学者たちはあまりにしばしば、自分たちの内輪でしか興味を持たれないような、どうでもいい数学問題ばかりに没頭している。この数学への偏執狂ぶりは、科学っぼく見せるにはお手軽な方法だが、それをいいことに、私たちの住む世界が投げかけるはるかに複雑な問題には答えずにすませているのだ。フランスで経済学者をやると大きな長所がひとつある。ここでは、経済学者は学術界でも知的な世界でも、政治や金融エリートたちによっても、さほど尊重されていない。だから経済学者も他の学問分野への侮蔑や、自分たちのほうが科学的正当性が高いなどという馬鹿げた主張を抑えねばならない。実をいえば経済学者なんて、どんなことについてもほとんど何も知らないというのが事実なのだ。」 (34頁)