隠ぺい又は仮装(11)

 

 

 

 認定事実は以下の通りでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

証拠によれば、原告の株式等の取引、確定申告書の提出等に関して、次の各事実が認められる。

 

 

(一) 原告は、昭和30年ころから本業のかたわら株式等の売買をしていたため株式等の取引に通じており、また、その当時取引をしていた高木証券の担当者や原告の顧問税理士からも注意を受けていたので、株式等の売買による所得があった場合の課税要件を十分に知っていた。

 

 

(二) 原告は、本件処分の対象になった取引が行われた昭和60年ないし同62年ころ、主に新日本証券梅田支店及び高木証券本店との間で株式等の取引をしていた(その割合は、新日本証券が7割、高木証券が3割くらいであった。)が、株式市場が開かれている日には、1日平均数銘柄の株式を数千株から万株単位で購入しており、その取引回数及び株式数が年々増加傾向にあった。このようなことから、原告は、右期間における株式等の取引回数が少なくとも100回を超え(具体的には、原告が把握していた昭和60年、同61年、同62年の各取引回数はそれぞれ200回、400回、600回くらいであった。ただし、この回数は、1回の注文による取引を1回の取引として計算したものである。)、取引した株式数も、昭和60年、同61年、同62年で、それぞれ3,000,000株、6,000,000株、9,000,000株くらいあり、優に課税要件を充足していると認識していた。

 

 

 

(三) 原告は、現物取引で買った株券を信用取引の代用証券として差入れており、その代用証券の増加額から、本件各年分の株式等の売買益を、昭和60年が20,000,000ないし30,000,000円くらい、昭和61年が100,000,000円くらい、昭和62年が100,000,000円余りと認識していた。また、原告は、取引をしていた高木証券の担当者から同社における原告の株式等の売買益を整理して記載したメモを受け取っており、昭和62年の同社における原告の売買益が、現物取引が23,000,000円、信用取引16,000,000円であったことも確認していた。

 

 

 

 

(四) 原告は、株式の取引では損をすれば得もするのに、売買益が出たとして所得計算に加えて納税した翌年に売買損が発生しても、前年に収めた税金を返してもらうことはできないから、売買益が出た年についても、その売買益を所得計算に加えて申告、納税するつもりはなく、計算さえもしていなかった。特に、原告は、昭和62年については、売買益は出たものの年末の大暴落のために多額の評価損が出たと考えており、なおさら申告するつもりはなかった。

 

 

 

(五) 原告は、所得税の申告等を顧問税理士に任せていたところ、本件各年分の所得税の申告に関して顧問税理士から税務申告のための資料を持参するようにいわれた際、株式等の取引について課税要件を超えていればそれについても申告が必要であると何度も念を押されたにもかかわらず、「50回以上ですやろ。ようわかってます。」「そんなに取引はしてないし、儲かってもない。」「ああ、ちょっと、ちょっとだけや。」などと答え、資料についても、給与所得に関する年末調整やその計算の資料、不動産所得に関する収入明細や固定資産税及び経費の領収証、配当所得に関する支払通知書などを持参しただけで、株式等の取引に関する資料(新日本証券から受領した「売買のお知らせ」「月次報告書」などの書面)を全く持参しなかった。

 

 

 

(六) 原告の妻や子も、株式等の取引をしていたが、その際、原告からの助言を受けてはいたものの、原告とは別個に妻子自身の資金と責任で取引をしていた。また、原告は、所得隠しのために家族名義の預貯金をしていたようなこともなかった。

 原告は、昭和40年ころから本件各年分の所得税に関して査察を受けるまで、乾物等を販売する有限会社杭瀬阪神マート(以下「会社」という。)の代表者をしており、その代表者としても株式等の取引をしていたが、会社と原告個人の取引を区別し、会社資金を個人の取引に流用したりすることはなかった。原告は、会社の申告業務等についても、原告個人のそれと同じ顧問税理士に頼んでいたが、会社については、現金商売でありながら、売上げを抜くなどの不正な行為をせず、株式等の売買益も含めた正確な申告をしていた。