自筆証書遺言について遺言能力が否定された事例(12)

 医学的見地からの検討として以下の通り判示されました。

 

 

 

本件では、以下のとおり、亡花子の判断能力に関して2つの医学的見地からの見解が存在する。

 

 

ア 斎藤正彦医師は、大要、以下のように分析・判断する(以下、斎藤正彦医師の意見を「斎藤意見」とい

  う。)。

 

(ア) 亡花子は、甲状腺機能亢進症の既往歴があり、同疾患は甲状腺機能障害による精神症状を呈する可

   能性がある。また、糖尿病の既往歴があり、治療の過程でおこる低血糖状態による意識障害が生じる

   可能性があるほか、全身の血管病変をきたし、脳梗塞、脳出血による痴呆症の原因となりうる。

 

(イ) 1回目の入院中(平成12年5月31日から同年7月7日まで)の河北総合病院の診療情報録によれ

   ば、亡花子は、上記のような行動をとっており、記銘力障害、思考力の障害、学習障害、実行機能障

   害など、広範な精神機能の低下を示すエピソードが見られる。このようなエピソードの大部分は、6

   月中旬以降に身体状態が安定し、病棟生活に適応した後にも継続している上、退院後も、亡花子と同

   居しているYが、医師に対し、亡花子の問題行動について訴えていることからすると、上記症状が退

   院後も続いたものと考えられる。

 

(ウ) 亡花子は、平成12年6月20日ころ、上記のとおり、HDS-R、MMSEによる簡易知能検査の結果

   (以下、「本件検査結果」という。)によれば、中等度の痴呆にあたる成績を示している。本件検査

   結果では、二次元複雑構成、見当識、記憶、計算、発想の分野が低下しており、こうした成績低下の

   プロフィールは、見当識障害、抽象的な思考力の障害、発動性の低下、注意集中困難などを示してお

   り、痴呆症の精神症状の典型的なものである。

 

(エ) 平成12年6月のCT、MRI所見によれば、上記のとおり、亡花子の脳には、多数の小梗塞、直径3セ

   ンチメートル程度の髄膜腫、強度の脳虚血性変化、大脳全般の中等度萎縮が見られ、かなり進行した

   びまん性の器質的変化があった。

 

(オ) 血管性痴呆症の場合、表面的な会話では話が分かっているかのような対応ができるが、実際には理

   解できていないという患者が少なくない。亡花子が、周囲の人の考えに合わせてもっともらしく振る

   舞うことができたとしても、それはいわば見せかけの理解力にすぎず、理解力・判断力があったとい

   うことはできない。

 

(カ) したがって、亡花子は、平成12年6月ころには、脳血管性痴呆に罹患しており、精神障害の程度は

   中等度まで進行していて、その症状は平成12年8月25日に吐血して倒れるまで、基本的には大きな変

   化がなかったものと推測される。亡花子は、平成12年6月以降、遺産を構成する財産を想起し、その

   総額の現実的な社会的意味を想像し、相続人の数や名前を想起し、死後、遺言書がいかなる効果を持

   つかといったことを推測する能力を欠いていた。

 

 

イ これに対し、今井幸充医師は、大要、以下のように分析・判断する(以下、今井幸充医師の意見を「今

  井意見」という。)。

 

 

(ア) 亡花子の既往歴である甲状腺機能低下症と痴呆症との関連は定かではないが、糖尿病と脳血管障害

   との関連は疫学上知られており、脳血管性痴呆との因果関係は考慮すべきである。

 

(イ) 1回目の入院中の河北総合病院の診療情報録の記載によれば、上記のとおり、亡花子は、平成12年

   6月2日からの約20日間は、異常行動や夜間の不穏行動などの行動障害がみられ、見当識、記憶が明

   らかに障害されていたことがうかがえる。しかし、同期間中、抗ヒスタミン剤、睡眠導入剤などが投

   与されていたことや、夜間に比べ、日中は穏やかな会話が見られたこと、6月20日以降は、比較的行

   動が落ち着いており、亡花子の了解もよかったことなどからすると、亡花子の判断力、記憶力の低下

   はせん妄によるものであり、せん妄状態の消失とともに判断力・記憶力も回復したと思われる。

 

(ウ) 亡花子について、本件検査結果が一般的に示す内容は、斎藤意見と同旨である。しかし、本件検査

   結果は、被験者の精神・身体状況によって点数が大きく影響を受けるという性質を持つが、亡花子

   は、上記のとおり、検査当時、未だせん妄状態の影響下にあったものであり、その精神状態が本件検

   査結果に影響したと考えられるから、本件検査結果だけで亡花子の精神機能を判断することはできな

   い。

 

(エ) 亡花子のCT、MRIの示す脳の器質的変化については、斎藤意見と同旨である。亡花子の脳の慢性脳

   虚血は、ビンスワンガー型脳血管性痴呆の所見と一致するところ、ビンスワンガー型脳血管性痴呆の

   特徴は、人格の変化、思考・記銘力・記憶力・見当識障害などであり、神経症状、失禁などが初期か

   ら出現することから、亡花子の行動障害は、同痴呆が背景にあるとすると、容易に理解できる。しか

   し、同行動障害がせん妄による可能性があるため、CT、MRIのみから痴呆を判断することはできな

   い。

 

(オ) 関係者の供述等(X3作成の報告書、N、O、丙田弁護士との面談の結果、Yの日記など)によれ

   ば、X3は、平成12年7月28日当時、亡花子と話しをした際に、亡花子は判断能力があったと明言し

   ている。また、丙田弁護士は、同年8月14日、亡花子自身が、X3の本件定額貯金証書等の持ち去りの

   経緯について説明し、しっかりとした手つきで委任状に署名したと述べている。X3も、丙田弁護士

   も、法律的知識を有する弁護士であるから、両者が、亡花子が事理弁識能力を有していたことを確認

   していることは重要な事実である。また、N、Oらも、亡花子を訪ねた際、亡花子が痴呆症であると

   は全く思わなかったと述べていることからも、平成12年7月から8月にかけて、亡花子が十分な精神

   能力を有していたと判断するのが妥当である。

 

(カ) したがって、亡花子は、1回目の入院当時は、精神症状の混乱が見られ、CT、MRIからはビンスワ

   ンガー型脳血管性痴呆が疑われるが、せん妄が存在していることから痴呆症を判断することは不適切

   であり、せん妄が改善した時には明確な判断が可能であった。平成12年7月28日や、本件自筆証書遺

   言作成時(同年8月22日)は、十分な事理弁識能力を有していたと判断できる。しかし、Yの日記に

   は、同日ころの亡花子の当時の判断能力に疑問を持つ記述もあり、亡花子の事理弁識能力に多少の疑

   問も残る。

 

 

 

ウ 斎藤意見及び今井意見は、亡花子は、1回目の入院中から行動障害、判断力・記憶力の低下が見ら

 れ、これに亡花子の本件検査結果、亡花子の頭部のCT、MRIの所見を併せれば、亡花子は、脳血管性痴呆

 により精神機能が低下していたと考えても医学的見地からは矛盾が生じないとする点では共通する。

  他方、本件においては、平成12年7月から8月にかけて、亡花子と会話を交わしたX3、Y、証人Oら

 が、亡花子と普通の人がするのと同じような会話を交わしており、通常の人と同じ程度の意思能力があっ

 たと思う旨供述しているところ、斎藤意見は、痴呆症の患者であっても、表面的な会話をすることは可能

 だとして、亡花子の遺言能力を否定し、これに対し、今井意見は、亡花子の行動障害・判断力低下はせん

 妄による一時的なものと考えられ、X3らが亡花子の言動について述べるところを前提とすれば、亡花子の

 遺言能力を肯定できるとする。

 

 

 

 

 わが国は高齢化社会に突入し、年老いた家族の痴呆の問題はこれからかなり増えると想定されます。

 痴呆老人本人、その面倒をみる家族、その家族をとりまく関係者が、最終的には金銭的に争っていくのをみると、わが国は本当に豊かになったのか?という疑問を生じさせます。

 裁判所は、亡花子の自筆遺言をどのような論理で否定するのでしょうか?また、当該自筆遺言を作成した行為は、Yの受遺者としての欠格事由に該当するのでしょうか?