歴史の終焉と複式簿記の終焉(1)

 

 “The End of History and the Last Man”1992年、Francis Yoshihiro Fukuyama、の著作では、ヘーゲル=コジェーブ主義に基づき、歴史とは様々なイデオロギーの弁証法的闘争の過程であり、民主主義が自己の正当性を証明していく過程とされます。民主主義が他のイデオロギーに勝利し、その正当性を完全に証明したとき歴史は終わるとされます。

 

 1991年12月25日にソビエト連邦大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、これを受けて各連邦構成共和国が主権国家として独立したことに伴い、ソビエト連邦が解体されました。フクヤマは、ソビエト連邦の崩壊を以って「歴史は終わった」と主張しました。

 1991年1月17日には、国際連合により認可された、34ヵ国の諸国連合からなるアメリカ合衆国、イギリスをはじめとする多国籍軍が、イラク攻撃への態勢を整え、国連憲章第42条に基づきイラクへの攻撃を開始しました。

 わが国では、1991年に大手証券を中心とする総合証券各社による大口顧客への損失補填、暴力団による東急電鉄株買い集めへの野村、日輿両大手証券の加担、野村証券による東急電鉄株の大量推奨販売などの証券スキャンダルが発覚しました。

 

 フクヤマは、1991年のソビエト連邦の崩壊をもって「歴史は終わった」と主張しましたが、これは、一定の理念に導かれる進歩という観念の終焉ととらえられます。

 

 フクヤマは歴史を動かす原動力は、認知を求める奴隷の労働だと主張します。気概、優越願望が、人間のモチベーションを駆り立て、歴史を発展させるのです。つまり経済的な貧困そのものが問題ではなく、貧困であるというコンプレックス、劣等感が、階級闘争の原因になるのです。

 

 そこで、すべての者が平等に裕福であるリベラル・デモクラシーのゆきわたった世界は歴史の終わりともいえるのです。

 それは、歴史を動かしてきた「気概」が薄められ、去勢され、なんの冒険心もなく、卓越したものを求める気概もなく、そのくせ財テクにはやたら熱心で、自分の財産や権利についてはいつも気をとがらす者、しかもそれが合理的で素晴らしいことだと思う者たちを生み出しているからです。

 

 わが国の伝統的な原価主義会計も、その気概を薄められようとしています。IFRSのフレームワークにおける公正価値会計を導入することは、財務報告が不安定な将来キャッシュ・フローの予測手段になることを意味しているともいえます。そのことは複式簿記の終焉となるのでしょうか、それとも新たな会計のスタートとなるのでしょうか?